「『旅とあいつとお姫さま』とは何だったのか 」 『テアトロ』 2016年11月号

 座・高円寺の『旅とあいつとお姫さま』の上演が、今年で最後を迎えた。「あしたの劇場」という企画の一つとして、開館以来、七年間にわたって毎年上演されたレパートリー作品だ。初演の時点で、児童演劇という括りを越えた非常に高い評価を得た。それは大げさな表現かもしれないが、日本の現代演劇シーンにとっても静かな衝撃としてあった。

 児童演劇を取り扱う雑誌だけでなく、一般の演劇雑誌や新聞もこの作品の評を取り上げたことは、それを証明している。また、他の公共劇場も子供と演劇に関連する企画をより積極的に製作し始めたようにも見える。すべてをこの作品に還元することはできないにしろ、その影響はあったのではないか。

 実際、この作品は「児童演劇」という言葉の響きがもつ、子供のための演劇というイメージを解き放った。従来、「児童演劇」と「現代演劇」は、一口に演劇といっても別のカテゴリーのものと受け取られている。「児童演劇」は子供が見るもの。現代演劇は青年以上といったように。しかし、この作品はたとえ一部ではあっても、いわゆる「児童演劇」というものの認識を転換させる契機となった。

 フィリップ・アリエスの『子供の誕生』に書かれるように、子供というものは大人が発見したものだ。中世では子供という概念がなかったというのは言い過ぎかもしれないが、いつからいつまでが子供であり、いつからが青年、もしくは大人となるのか。それは、時代の状況や大人から見た視線によって、その概念や定義は変わる。

 だから、旧来の日本の「児童演劇」の子供が見て楽しめる作品とは、大人の手によって子供はきっとこういう作品を喜ぶ、という幼稚であったり説教臭かったりする教条的な作品が多い。ある世代までは学校公演でむりに見させられてうんざりしたという不幸な経験は多くの人がもっているだろう。いくつもの優れた世界の古典的な童話は、一見したところ隠喩や暗喩に満ちて、残酷な物語や性愛というテーマを含み、社会の現実の一端を抽象化して示している。概してよりわかりやすくした普及版のような大人によって描かれたものは、それらの要素が抜かれる。

 しかし、子供の想像力やイメージの深度は、ときに大人の考えを遥かに超える。その感受性の鋭さや許容量の大きさは、大人のように理解できないものを拒絶するのではなく、イメージを抽象化の段階そのままに、感覚として楽しむことができる。ただ、それを言語化できないだけなのだ。

 むろん、この『旅とあいつとお姫さま』は、なにも難しい物語というわけではない。北欧の昔話とアンデルセン童話が原作の、姫を探す青年の冒険譚だ。魔法にかかった姫を解き放つべく、直面する困難を旅の最中で出会った友とともに乗り越える。旅する物語というのは、映画ならばロードムービーのように、演劇においてもそれ自体が主題ではないが放浪の末に王となるオイディプスなど、物語の王道だ。旅が登場人物たちの移動を要請するゆえに、物語に起伏を与える。そして、旅は人生の縮図となる。

 この物語も、最初に青年は傷つけられて捨てられた死体と出会い、それを埋葬するために全財産を支払う。そして、その後で出会った友人と旅が始まる。旅の困難を乗り越えて、憧れの姫を見つけ、恋をして、彼女を手に入れようとする。そのためには、魔法にかかった姫の三つの課題を果たし、魔王から姫を救い出さなくてはいけない。友は彼の望みが叶うべく、身を挺して手助けをする。舞台美術としては、最初のシーンで包帯を巻かれた死体を模した人形、かつて姫を手に入れようと失敗した者たちの首が垂れ下がるシーン、魔王の膝に姫が座るシーンは性のメタファーとも読み取られるなど、隠喩として描かれてあっても、10歳の子供には刺激が強すぎるという声もあるだろう。だが、全体としては分かりやすい物語と洗練された舞台空間のなかで、具体的な部分と抽象度を高めた部分が上手く混じりあい、広い世代に受け入れられるよう工夫がなされている。

 そして、物語は姫の魔法を解き、青年が最後に友と別れるところで終わる。その友は最初のシーンで有り金をはたいて埋葬した死体であり、そのお礼のために彼の手助けをしていたことがわかる。上演時間は1時間30分もないが、旅する物語は場面が移動しやすく、この場合は同じ俳優がいくつもの役をこなすため疾走感もあり、大人が見ても短さを感じさせない。だから、最後になると忘れかけていた冒頭のシーンへと連れ戻されて、なぜ友はあれほどまでに友人を助けようとしていたのかが分かる。ただし、善行をしたものには恩が返されるというような、一方向から見た押し付けがましさはない。青年は、窃盗をしたために罰として絞首刑となった死体が、罪を償った後でもむち打たれることに対して死者の尊厳を求めただけで、作品としては深く触れないようにしている。

 だから、演出も奇を衒ったり、特別難しかったりする表現はない。少人数のそれぞれ俳優たちの特性を上手くいかして、ほぼ全員が何役もこなしていく。そこには、レパートリーによって何年も重ねてきた俳優たちを中心にした、経験の厚みを感じることができる。

7年間の旅の終わりに 『旅とあいつとお姫さま』から見る公共劇場の理念

 児童演劇を取りまく状況は、日本の特異な風土がある。日本では児童演劇はやはり子供のためだけにある。しかし、欧米圏を引き合いに出すまでもなく、児童演劇は子供のためだけにあるのではなく、子供を連れてくるのが大人ならば、大人も楽しむ必要がある。子供でも大人でも、老人や青年など、誰でも楽しめる対象年齢を広げたものが本来の児童演劇には要求される。だからこそ、老若男女関係なく世代を超えて、劇場という階層をこえる空間の中で、みなが共有の体験をするという理念が成立する。『旅とあいつとお姫さま』は、日本においていかにそれを達成できるのか。または、公共圏の中に演劇を本当の意味で根付かせることは可能なのかを、良質な作品ゆえに試みていた。

 それほどに、この作品の質と、その作品を取りまく試みは、これまでの公共劇場が果たした子供と演劇という取り組みを、さらにもう一段階引き上げた。たとえば、杉並区の公立小学校の4年生全員に、この作品ともう一つの作品『ふたごの星』のどちらかを選んでもらい見せること。その取り組みを可能とするためには、個別の学校でなく制度として杉並区との折衝が必要だっただろう。そして実際に実行するにしろ、学校側に出向くのでなく劇場に連れてくることは、メリットも多分にあるが手間も伴う。

 劇場の舞台機構が使えることや、地域の劇場として劇場を子供の頃から知ってもらうことなど、様々な人が集う場所として劇場が機能するためには、まず来てもらうことは重要なことだ。だが、やはり連れ出す学校側にとっては、特に最初は手間を感じるだろう。受け入れる劇場側にとっても、一般の観客対応とは違った、小学生や学校の先生たちへ見せることを前提としたケアも必要となる。作品に関する説明として、学校公演の後にはアフタートークを毎回催し、参加希望校にはバックステージツアーも行う。一般作品の宣伝とは違い、引率の先生のために作品への予備情報として専用の資料も用意している。

 しかも毎年続けるというのは、作品そのものを作る手間は軽減されるかもしれないが、一般の製作とは違う労力を伴う。レパートリー制が根付いていない日本の演劇にとって、7年間にわたって毎年同じ作品を上演することは、少なくとも集客においては苦労する。これは、この作品が小学生たちに見せると同時に、一般の観客にも見せることを前提としているからだ。それは先に述べたように、いわゆる「児童演劇」の括りで作品を作らないことだ。また、レパートリー制を根付かせるための土壌作りにとって、それは重要なことだ。座・高円寺は、レパートリーとして繰り返し上演させる作品が多い。その中にはなぜレパートリーにしているのかよくわからなかった作品もあるが、芸術監督の指針として、座・高円寺が公共劇場として演劇を通して劇場=公共圏に果たそうとする役割があるからだ。

 確かに、集客には苦労したかも知れないが、ほぼ毎年同じ時期に上演されるこの作品は、だれにでも優れた作品として勧められるという利点がある。時期も不定期で、再演、もしくはせいぜい再々演までしか上演されない日本の演劇にとって、必ず人に勧められる、もしくはリピーターを得ることを目指したのも、この作品の特徴だったのではないか。また、十歳という多感と思われる小学生を招待することは神経を使うし、その表現は彼らにとっては過激であるとか、さまざまな意見もあるだろう。しかし、だからこそ、このような作品を見せた方が、大きく異なった感受性がより持続されるのではないか。一口に10歳といっても、その頃の子供は年齢によって精神的な成長度は大きく違う。同じような意見に集約しない作品にこそ、子供の多様性をそのままに活かせるのではないか。同じシーンで怖がる子やおびえる子もいれば、喜ぶ子もいる。それは一般作においても、本質的には同様であり、児童演劇だけが違うということはない。

 そして、座・高円寺という公共劇場での上演は、かなりの数の大人たちも観ることができた。学校で作品を観た子供の兄妹をつれて親が後日また観にくることもできる。そして観た舞台をもとに家族で共通の話題として話すことができる。何年か経って再びこの舞台をみて、気づかなかったことを発見することもある。だから、ずっと続くと思っていたこの作品が、今年で終わってしまうのは残念の一言に尽きる。だが、その理念自体が残っている以上、次のレパートリー作品にも同じような期待したい。


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