「若手たちの群像」 『昔々日本』 舞台評 (山本卓卓作・演) アートの動物学(4) 『テアトロ』2016年12月号

ノスタルジーの輪郭線

 岡田利規をはじめ2000年代に出てきた若手たち、今となっては懐かしく聞こえる人もいるが、本谷有希子、前田司郎、中野成樹、松井周、三浦大輔、江本純子などが出立した当初、その状況や作品たちにさまざまな名を与えようとみんなが苦心した時があった。「ゼロ年代」、「ポスト・平田オリザ世代」、「平田チルドレン」など、今となっては滑稽に映るが、いくつも現れては消えていった。しかし、それらの言葉で状況を捉えることは、もはや世代で括るだけであって、作品たちの共通の要素と時代の感覚の合致する点を探しているとはとても言えなかった。ある若手の一群がいたことは間違いないし、彼らの作品の輪郭は今から見れば、身体と物語の、ある危機的な時代の表象の分裂をゆるやかに描いていたとは言える。

 そして彼らより一回りほど下の世代、いまの若手と呼べるような20代後半から30代にさしかかった世代になると、もはやそのような名付けをしようとすること自体がなくなった。「テン年代」という言葉が一瞬現れたが、それも「ゼロ年代」の引き継ぎでしかなかった。現在は、批評はもちろんのこと、言説それ自体が必要とされなくなり、ジャーナリスティックに状況を追うことすらなく、単にパブリシティのみが必要とされている。それは更新のみで、継続はもちろん、状況の勢いも本質的に失わせている。

 しかし、あえて現在の若手たちを描くとどうなるか。トップランナーを挙げるとすれば、「マームとジプシー」の藤田貴大になるだろう。ノスタルジックな作品と一言で括れる作品たちではあるが、『cocoon』に代表されるように、単にノスタルジーに包まれた空間だけではなく、そこに亀裂を入れる試みもあると言ったほうがいい。少なくとも、少女の抱える闇や失った過去をノスタルジックに想うことをなんとなく、おしゃれな空間のなかで描くことが、作品の主眼というだけではなくなっている。

 再演だが、彩の国さいたま芸術劇場の稽古場で上演された『ドコカ遠クノ、ソレヨリ向コウ或いは、泡ニナル、風景』は、兵庫県の尼崎で起こったJRの脱線事故を、むしろ逆に日常生活の裂け目として、亀裂が露呈された瞬間を描くために、ノスタルジーという装置が用いられている。幅広い年齢層の出演者は、作品のテーマとも合致していた。

 それは、80年代に流行った演劇の表象であるノスタルジーとは離れたものだ。ありえたかもしれない過去を想うことがノスタルジーであって、それは実際にない、もしくはその時は実際に起こっていないことである。あくまで現在の地点から過去を理想的に描くことがノスタルジーの機能だ。しばしば語られる80年代のバブルと核戦争の相関関係は、あやふや破綻の危機を隠蔽した上に成り立っていた当時の演劇の流行として、幸せであったかもしれない過去を想うことによって安らぎを得ていた。現実を直視しない安寧を得るための方法と言ってもいい。

 そう考えるならば、基本的に藤田の作品は、小劇場史の上に成り立っている。東京芸術劇場で上演された寺山修司作の『書を捨てよ、町へ出よう』なども、失敗作であったとしても寺山の表象の一つであった奇形なるものは、あどけない少女が抱えるエロスなどの闇へと変換されているし、少年や少女性は野田秀樹、ひいては唐十郎にも通じる。その意味で彼は日本の小劇場の直系のテーマをもって、作品の表象にオリジナリティをもっているといえる。

 しかし、藤田のノスタルジーの扱い方は先にも述べたように違いがある。ノスタルジーに浸ろうとしても浸れない。むしろ、ノスタルジーに亀裂を入れて現実との接点を見つけ出そうとしている。そのためのノスタルジーによって舞台は覆われている。そして、一概に同じとは言えないが、若手たちに共通することとして、ある装置を用いることによってどこかに現実との裂け目を見いだそうとすることがある。

『昔々日本』

 その若手たちのもつ作品の輪郭は、藤田に限ったものではない。山本卓卓が作・演出をした『昔々日本』という作品も同様だ。今まで彼が主宰している「範宙遊泳」の作品の形式は、スクリーンに字幕や映像を投影して、その前でパフォーマーがなにか行為をするというものだ。スクリーンに出される言葉や映像とときに呼応したり、ときに舞台のみで対話が行われたりして作られる。むろん、それだけならばオリジナリティと呼べるものではない。映像や字幕を出してパフォーマーたちが対応するのは、今まですでに上演された作品にもある。

 たとえば、コンセプチュアルな作品を作ることで知られるコンテンポラリーダンスの山下残の傑作『せきをしてもひとり』は、スクリーンと文字とパフォーマーの身体と言葉の関係をおもしろみのなかで、ラディカルに突きつめたものだ。スクリーンに映し出される尾崎放哉の自由律の俳句を、与えられた言葉として身体を用いて遂行していく。いわゆる演劇のナチュラルに与えられた言葉を、まるでいまここで思いついたように言う、上手いとされる演技の虚飾を逆説的に曝いたものだ。

 むろん、その作品と比べる必要はないし、範宙遊泳の作品は言葉にしては同じかもしれないが、表れとしては全くの違いがある。それは今までならば、いわゆる若手にありがちな、とにかく何か思いつく要素すべてを、一つ一つを洗練させて突きつめるというのではなく、物量で入れ込んでいるといった感じになるだろうか。

 特に今回の作品は、いつもの劇団の公演とは違って、演劇を学ぶいくつもの大学の学生を出演者にして作られている。劇団の公演に比べて、はるかに人数が多い。規模もいつもより大きく、東京芸術劇場のシアターイーストで上演されたが、池袋の雑踏をイメージさせる映像をはじめ、鏡像的に自己を見つめようとする台詞なども映される。ラインなど二人のプライベートな会話がスクリーンに映されると、その関係性が表面的に見えるものと歪に変わっている様などがある。

 また、猿蟹合戦のような寓話を交えながら、現代はもちろん時代を越えて、演技のみならずコンテンポラリーダンスのような身体のムーヴメントを含めて、様々な要素が幅広く入れ込まれている。だから基本的には、良くも悪くも荒唐無稽な作品であって、作家のオリジナリティの発露とも言ってしまえるかもしれないが、ベースにあるのは、あらゆるものを入れ込もうとしている姿勢だろう。

 そこには、いつもの作風と変わらない要素のなかにでも、導き出そうとする、わずかながらでも違うものが垣間見える。たとえば、ある姉妹たちの物語。姉妹たちのなかで、だれかとつきあい、別れたもの。結婚している姉の夫が痴漢をしてつかまったなどのエピソードがある。それが冤罪であるかは問わないまま、二人の関係が終わるというのも、どこかありきたりなモチーフを、物語を断片化させていくつもの要素を入れ込むことで、通俗的な話に終わらせないようにしている。むしろ、通俗さが拡散されるようなのだ。

 寓話の猿蟹合戦もそうだ。暴力のエスカレートやどこか現実のテロルと結びつけようとするなど、なにもかもがあやふやな現実という形に還元されてしまうことから、一歩抜けだすために、とにかく猥雑にあらゆるものを入れ込んでいる。むしろ一つ一つを純粋化して突きつめるよりも、まるでもがきながら、無理矢理にでも猥雑に入れ込んで、なにかを探っているようなのだ。

 それが、現実との接点を作ろうとしているかのようなのだ。実際、コンテンポラリーダンスがいくつものシーンで入れ込まれるが、その必然性とは何なのか、よくわからない。とくに身体の表象の危機が提示されるわけでもない。ただし、表だって身体の危機をさらけ出されなくとも、なにかがあるように醸し出す。少なくとも抑圧された要素があるかのように映そうとしている。

 かつてならば、その猥雑さが一つのスタイルそのものとなった。たとえば、ミクスド・メディア・アーツなどのジャンルはまさにそうだ。それこそ、批判も両居したが、ニューヨークの九〇年代の作品たちを想起することもできる。リー・ブルーアなどはその典型的な例だろう。(むろん、リー・ブルーアの作品の表象にもあるポリティカル・イシューとして、文化とその搾取のシビアな関係性をいかに考えるべきかといった問題とは無縁だが。)

 それらは、たとえば直截的なテロルからは遠くとも、しかし無縁とも言えない、若手世代のなんとなくぽっかりとあいた不安な感覚を映している。たとえテロルとは離れた場所であっても、いまある現実は安穏とした生活とはもはや呼べない。ただし、常態化する日々は幸か不幸か、まだ続いている。それとどう向き合うべきなのか、という問い自体がもはや答えをもたず、陳腐なものとなることを避けて、いかにアートは可能なのか。

 ノスタルジーに逃げ込めない状況を、亀裂として提示しようとする藤田同様に、とにかくあらゆるものを入れ込んで無理矢理につなげ合わせる山本の作品は、どこか小劇場の歴史を連想させる。表象は全く違っていても、たとえばアンダーグラウンド演劇の一部の作品も、継ぎ足された物語を無理矢理に結末まで持っていき作っていた。山本の作品も物語の筋によって提示するのではなく、その表象の皮膚感覚をいかに示すかにあるのだろう。たとえ稚拙であったとしても、作品を作るなかでそれが探れることは若手という恵まれた特権性のなかにいることでもある。むろん、それがいつまで続くか分からないことも、不安となって作品に反映されているのだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?