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老害について

近頃、老害という言葉を聞くことが多くなった。
年齢を重ねることについて、どう捉えるかは人それぞれであると思うが、男性と女性では少し異なり、また時代においても異なる気がする。
あくまでも『気がする論』なので、何の根拠もない。

日本では、年功序列という制度が未だに生きている。
年齢が高ければ、社会的地位が高くなる(傾向にある)
特に男性の場合は、会社の中で地位が高くなり、給与も増える。
そして以前は、60歳で定年を迎え引退していた。

現代の日本社会では少子高齢化が進み、超高齢社会である。
しかし、昭和前期までは高齢者の比率が少なく、今より大切に扱われていたのではないだろうか。
働いている若い世代で、老人を支えることが出来ていた。

現代では高齢者が多くなり、そして元気なので、あれやこれやと若い世代に注文を付けてくることもある。
若い世代からすると、これが鬱陶しい。
一体、何が鬱陶しいのだろうか。

例えば、日曜朝の情報番組のスポーツコーナーで、過去にプロ野球の名選手であった老人が、現役選手のプレイに対して「喝」だ「あっぱれ」だと評していた。当初は頑固親父が何かいってら的な気楽なムードであったのだろうが、徐々に視聴者がウザったくなってきたのだろう。
老害扱いされてきたように思う。

いくら昭和のプロ野球の名選手であったとしても、現代のプロ野球の技術レベルの方が当然上回っているし、練習方法も異なる。
評する老人の頭の中が、常にアップデートしているならあまり文句は言われないだろう。しかし、「我々の頃は・・・」的な論調で評されても鬱陶しいだけなのである。

M-1グランプリという漫才の大会でも、同じことが言えるのではないか。漫才のレベルが上がってきているのに、以前は昭和の漫才師が点数をつけ評していた。松本人志や島田紳助であれば、普段から笑わせてもらっているので文句はないが、オール巨人ではあまり笑った覚えないしな、となる。

様々な社会で、このような現象は生じているのではないか。
年老いていようが、なかろうが、知識や技術をアップデートしていない人間は、邪魔者扱いされる。
これからの社会では、ただ社会的地位に留まっている老人は嫌われる。
常に知識や技術をアップデートするような人間が必要とされる。

しかしながら、宮崎駿のような「俺はもう時代に合わせるつもりないから」と言っている老人はカッコいいし憧れる。

なぜだろうか


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