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赤道を横切る:第6章 海防

明くれば10月7日、午前7時ノルウェー灯台を距離5カイリに通過、8時48分水先人乗船クアカム河口に向かう。沖合から眺めた仏印の姿は南画の島、南画の山といった印象、ただし遡江の流れは蘇芳【すおう:黒みを帯びた赤色】の如く赤黒く不気味な色合いを呈している。マングローブ生い茂る中を縫いつつ、行く行く朱瓦白亜の家屋点在するを認めながら午前11時10分海防【ハイフォン】桟橋に繋留、香港よりの航程495カイリ。

横山正修翁を先頭に在留邦人の方々が出迎えてくださる。中には石川という老人(河内工芸学校教授)の令嬢とか、洋装の美人が一行注目の焦点となる。老人の令嬢だから老嬢と早合点すべからず。明眸皓歯たしかに甲の上に位すと申して必ずしも女ひでりで鑑識眼に狂いを生じたからではない。河内【ハノイ】からは石川父子のほか潮見書記生並びに菊地氏が出張された。宗村総領事は西貢【サイゴン】出張中なれど明日の西貢見物にはできるだけ便宜を計る旨の好意も伝えられた。

着港後ハイフォン市中見物の順序方法の打合せをなし、午後2時半行動開始ということに決定したが、それまで待ちかねの連中、まだ打合せも済まぬ中から上陸第一歩の足跡を仏領インドシナに印せんものと、桟橋付近を散歩している者もいる。森両替委員は団員から依託された紙幣を小脇にかかえこみ土地不案内の外国銀行に乗り込んで使命を果たして来られたのはご苦労であった。

散歩組が熱い熱いと言いながら汗だくで帰船する。気温は83~4度であるのに日射が余程強いと見える。午後約束の時間にワイシャツ姿のエージェントが大兵肥満を持て余しながら案内に来る。ソレとばかりに桟橋前に降り立つと断髪跣足【裸足のこと】の安南土人が車台の低い轅【ながえ】の長い、とび色に塗った人力車を押しつけるように持ってくる。石山旅館主黒崎氏が奔走して車を集めている内に気早の連中はすでに行進を起こす。ここでも早い者勝ちは誠に苦々しい。せっかく班を分かって班長をおいても何にもならぬ。ようやく人数だけの車が揃ってマゴマゴ組がセカセカ組に追いつく。人力も80台も並ぶと一寸壮観だ。車体と前後の間隔で仮に二間としても160間、二間半とすれば200間だからどうしても三町にはなる訳だが、それは二列縦隊としたから延長は半減される。エージェント氏の案内はまず河岸のドレッジャー【dredger:浚渫(しゅんせつ)のこと】から始まった。我々のごときマゴマゴ組は拝聴に及ばず。その長講が済んだ頃から合同したのだが、よく見ると人力の泥除けがチーク材でできている。チークだけは贅沢に使っている。

市の大通りはボールベール街と称し、その両側は仏人大商店、商業会議所、各銀行、市庁、裁判所なぞ立ち並んでいる。街路樹は鳳凰木、菩提樹、椰子なぞでその緑蔭によって、白昼炎熱の苦を忘れしめる。この大通りの東端に小公園があって素馨かおり、丁子花咲くほとり、トンキン征服に多大の功績のあったジュール、フェリーの立像が天の一角を凝視している。

住宅は簡素を旨とし二階以上の高層建築は見当たらぬ。大体において「公園を挟んだ町」という感じのするのはさすがにフランスの統治国だけある。当地は人口20万、海陸交通の中心地たるのみならず、特にインドシナにおける主要工業地としてその将来を括目【かつもく】されている。セメント、紡績などの工場もあり、首都ハノイと連結することによってその存在を価値づけている。

最後に中央市場というのに案内されたが、大稻埕【だいとうてい:台北の繁華街】の市場なぞよりは少し規模が大きい。外観は支那人が多いだけに台湾からの観光客は一向珍しくはない。陳列品の中には日本品もある。人力車見物は午後2時35分からは3時45分に至る一時間余りであったがその車賃が20セント(邦貨33銭)であった。

午後4時船内に在留邦人を招待して茶話会開催、その実「物を聴くの会」で土地の人から新知識を仕入れる魂胆である。私設領事横山正修翁30年の蘊蓄【うんちく】を傾けて一同を啓発するところあった。その談片中、フランス政府は日本商品に対し二倍以上の関税を課し、土地所有権問題もいまなお確定せず、日本が欧州大戦参加に際しなぜ互恵条約締結の挙に出なかったかと憤慨し、仏印には鉄、無煙炭、松脂、米、珪砂、ボーキサイト、スズ、鬼萱、木材などあり、フランス占有後70余年に及べどもまだ未開発の余地十分にして第二の満州を想像して得られざるに非ずと盛んに油をかけられた。

ハイフォンと言えば南洋倉庫創設当時、中川台銀の発意によりてこの地にも支店開設を希望せられ、その準備行為として横山翁を介し土地購入に着手したことがある。蓋し【けだし】この地はトンキンの農業奥地を控え、遠く雲南の産物中継に役立つ意味において、すべからく先ずハイフォン港口を扼す【やくす:おさえる】べしと言う事になったのだが、当時広東支店移譲後で、多少海外における倉庫業の経験もあったので忌憚なき意見を開陳に及んでおいた。その後都合によって支店開設は見合わせとなり、せっかく買入れた土地も遂に売却されたが為替関係その他で結局若干の損失となったのはお気の毒であった。我輩の後日の参考のためその土地を一見しておきたかったが遂にその目的を達することはできなかった。

次に石川老からも一場のお話があったがハイフォンには現在邦人6戸40人、ハノイに約60人、トンキン全体では130~140人位いるとのこと、日露戦役当時の全盛時代には400人に達したこともある。ただし現在では例の娘子軍はいずれの地にても見出すことができぬ。

この夜は一同自由行動とあって挺身隊の活躍目覚ましく、船内には団員の隻影【せきえい】も認められぬ。本部員はひとまず横山翁を訪問して敬意を表し、ハノイの菊地氏の案内で買い物などし、ダンスホールも覗いてみたが、安南婦人のダンサーが日本の蓄音器レコードに足並みを揃えて踊っているのに驚いた。葡萄酒が2ピヤストル(金3円30銭)でかなりの品だからこれも驚きついでに驚いておいてもよい。モウひとつついでに車賃が普通5セントだがこれも邦貨で8銭余りだから台湾の7、8町以内10銭と比較して無茶苦茶に安いわけではないかも知れぬ。

我々の一団は5、6人づれとなって盛んに人力車を走らすと団員が三々五々切りに出没している。中には「ヤア団長」と声をかける若い元気の良いのもある。追々淋しげな方面に曳き込まれて小さい橋を渡ると一斉に梶棒を卸す。これぞ土人の私娼窟かと勇気を鼓して前進すると、なるほど軒並みに化生【けしょう】の者が網を張っている。何気なく通りすぐる我々一行を見送ったと見せて突如帽子を奪い取り、甲より乙に、乙より丙にと転々リレーを始めたのには呆れた。同行の岡野氏が若手代表として追いつきようやく奪還してくれる。試みに館の内部をうかがうに五つ六つの間仕切りがあるだけで土間のまま簡易寝台を並べ、薄暗い灯火が気味悪く瞬きしている。その不潔さ、その陰惨さ一刻も堪え得られる光景ではない。それでも「異国人征服」という一種猟奇的気分にそそられて敢然と飛び込む勇気が頼もしいと言えば言われぬこともない。

帰途、例の小橋のほとりまで来ると一等ボーイの「白頭鵠(ペタコウ)」と命名した男に出逢う。それは頭髪の一部が真白であたかも台湾の白頭鵠に似ているからである。さては彼子も享楽かと思ったが、この男こそシンガポールから姿を隠して無断逃亡を試み色々の意味で謎を投じた人間であった。夜牛子の周航記において「三巻団長を始めトンキン美人を相手に盛りだくさんの珍ダネを仕込んだ」とあったが事実は右の通りで虎穴に入れども虎児を得ず。否、虎の子を失わなかったのが真相である。もっとも一行の中には相当の猛者もあり、大いに異国情緒を味わって満足したらしく、中には余りの不潔さに同伴した車夫をして代弁せしめ悦に入った先生もあったということだが、詳細は報告がないから今において判然とせぬ。

写真は、当時のハイフォン劇場(現、市民劇場)。フランスの植民地であった影響から、サイゴン、ハノイ、ハイフォンには、このようなフランス地方都市に見られるオペラハウス様式の劇場があったそうだ。
この日の夜は、ハイフォンの「夜遊び」にでかけたようだ。小さな橋を渡った辺りに怪しげな場所で何をしたのだろう。我が祖父三巻俊夫は、紳士であったと信じよう。
白頭鵠(ペタコウ)とは、和名ではシロガシラ。台湾に生息する代表的な野鳥だ。1928(昭和3)年に、野口雨情・作詞、中山晋平・作曲による「白頭鳥(ペタコ)」という童謡が発表されている。この歌は、野口と中山が前年、台湾を訪問した際、そこで見かけたこの鳥を題材に作ったもので、台湾では学校唱歌として歌われ、広く愛されたという。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。


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