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望郷:ジャン・ギャバンの背中がすべてを語っている

望郷
1937年 フランス映画
原題:Pépé le Moko(ぺぺ・ル・モコ)

フー流独断的評価:☆☆☆☆☆

映画には、わずか90分ほどの時間の中に、ひとつの独立した世界を構築する使命を帯びた作品がある。そのような作品は、もはや製作費が高いとか安いかとか、出演している俳優が有名かどうかなどは、超越してしまっている。どんなに金をかけようが、美男美女を出演させようが、クズの映画はクズであり、そのような映画が多く存在していることも真実ではある。しかし、『望郷』こそまさしく映画の神に選ばれた作品のひとつであることに間違いない。

舞台は、アルジェのカスバだ。いまや世界遺産に登録されているが、オスマン帝国時代から延々と小高い丘を覆い尽くすように家屋が建設され、それらが軒と軒とが接し、路地は迷路と化して、一大奇観を呈している。カオス(混沌)という概念を説明するのには、「カスバ」のようだと言うのが、もっとも手っ取り早いかもしれない。旧約聖書の中に登場する、神の怒りによって滅ぼされたとされるソドムとゴモラは、このような所だったのだろうなと想像してしまう。

フランス本国で数々の犯罪を犯し、当時フランスの植民地だったアルジェリアに逃亡してきたのが、ジャン・ギャバン演じる主人公のペペ・ル・モコだ。カスバに身を潜めているが、いつの間にかこの地でも一目置かれる存在になっている。当時のジャン・ギャバンは、まだ三十歳代の前半であり、相貌こそ若々しいが、その貫禄はすごいものがある。演技などを超越し、ジャン・ギャバンの人間としての存在感がそのままスクリーンから溢れてくるのだ。

ペペ・ル・モコとは、南仏オクシタン語なまりで「爺さん」というほどの意味だろう。ペペ・ル・モコは、パリへの望郷の念を募らせるのだが、彼自身はパリの生まれではないのだ。おそらく南仏沿岸のトゥーロンあたりのチンピラあがりで、パリに出て大仕事(犯罪)をして、カスバに逃亡したのだろうと僕は勝手に想像する。つまり、生まれながらの根無し草であり、カスバもまた彼にとっては永住の地ではあり得ない。

カスバでペペ・ル・モコの周囲を取り巻く人々が素晴らしく魅力的だ。ペペ・ル・モコの情婦のイネス。「〇〇は情が深い」と言われるが、その典型だろう。チンピラのピエロ。頭も悪く、腕力もないが、離れた母親への思慕だけは強い。地元の刑事スリマン。警察署長やフランス本国から出張でやってきた刑事などを適当にあしらう。正義や法律など振りかざしてみても、カスバは良くならないと分かっているのだ。

こんな素敵な仲間たちがいるのに、なぜペペ・ル・モコは急に「望郷の念」に襲われてしまったのか。女(おんな)なんだな、やっぱりこれが。パリからやってきたギャビーという美女に一目惚れしてしまう。つまり、激烈な脳内化学反応が起きてしまったのだ。この脳内化学反応(恋愛感情)は、人類の芸術の源泉であると同時に、数えきれない愚行の原因でもあるのだ。

忘れられない場面がある。ギャビーへの恋心を募らせるペペ・ル・モコのそばで、落ちぶれた娼婦タチアナがパリを想ってシャンソンを歌う場面。街角のカフェ、道端の花、公園の泉、美味しかった駄菓子の味……。嗚呼、パリに戻りたいと、僕でさえ思ってしまう。タチアナを演じたのは、フレールという無頼のシャンソン歌手だ。麻薬と酒に溺れた人生だったが、その歌声には人生の真実がある。

この映画が作られてから3年後の1940年。ペペ・ル・モコがあれほど望郷の念を募らせたパリは、ナチス・ドイツに占領されてしまう。ペペ・ル・モコを演じたジャン・ギャバンは、アメリカに逃亡する。つまり、ジャン・ギャバン自身が、ペペ・ル・モコになってしまったのだ。

ラストシーン。フランスに向かう船を見送るペペ・ル・モコ。愚かに生きるからこそ、人間には価値がある。その背中が、すべてを語っている。

監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ
脚本:アシェルベ、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャック・コンスタン、アンリ・ジャンソン
原作:アシェルベ(アンリ・ラ・バルト)
製作:レイモン・アキム、ロベール・アキム
出演:ジャン・ギャバン、ミレーユ・バラン
音楽:ヴァンサン・スコット、モハメド・イグルブーシャン
撮影:マルク・フォサール、ジュール・クルーガー
編集:マルグリット・ボージェ

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