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赤道を横切る:第7章 河内

翌10月8日は河内【ハノイ】往復の予定である。今回の旅行中最大の馬力をかけ午前4時銅鑼を打ち鳴らして全員を叩き起こし、松竹班は二回に食卓を開き、5時半集合、例の人力車で海防【ハイフォン】停車場に駆けつけ、6時8分全員漏れなく発車に間に合った。もっとも特別挺身隊として前日から河内に出かけ同地に一泊した者もある。その連中は馴れぬ洋式旅館に落ちついて、入浴もロクロクできず、スリッパも掛毛布もないのに閉口したとは後に聞いた事だが、中には相当フランス本国にでも行った気持ちで喜んだ者もあったか否か、それは分からぬ。

海防・河内間は鉄路120キロメートル、沖積層のトンキン平野は坦々として続きほとんど勾配という勾配もない位である。宣【むべ】なりソンカイ河によって流出された泥土の体積が一望万里の沃野を形成し、その面積実に2万5千平方里という。而してその大部分たる米田よりの産米高180万トンに上る。汽車は途中一寒村に数分間停車したが、地方土民の風俗はいささか特異性を示してカメラマンを喜ばした。我輩も今度の旅行で子供から巻き上げたレフレックスの初度撮影を試みたが、取り扱いが不慣れで自信が持てぬ。

ハノイに近く紅河【ソンカイ】の鉄橋を渡る。ソンカイは紅殻を溶いたような河水で、河岸には小屋掛けの筏などが見える。この鉄橋こそ東洋一を誇るもので延長1682メートル。これを越えるとフランス風の建物が続くハノイ市街に入る。午前8時15分ハノイ駅到着、先着団員、邦人有志、並びに1935年東洋観光会議インドシナ代表シャル・ラコンヂエ氏等に出迎えられる。代表閣下は先般日本に赴きその後一層親日態度を示すに至ったとの事で、心から一行を歓迎してくれる。我輩覚えず「メルシーメルシー」(多謝多謝)を連呼すると、仏語を解すると思ったのか一層雄弁にベラベラやられ閉口した。旅に出て半可通を振り回すものではない。

ハノイ停車場は市の西南端に位し構内は正北から正南に伸びている。駅前から用意の自動車に分乗する事になったが、初めて各班別を意義あらしめた。首都だけあって市街も整頓し、まずハイフォンの兄貴だけのことはあると思う。

商品陳列館を右に見て入口を瞥見しただけで失敬した。インドシナに産する農林鉱物類、加工品、工芸品を網羅し、さらに東洋各地のものまで蒐集しているとの事だが何故か案内人は素通りを命ずる。これは観光団の何れもがする「サイトシーイング」を先にして、時間一杯特殊施設を見物さすという寸法らしい。

自動車の一隊は並木街道を縫って進む。日本総領事館には代表だけ挨拶に参上したが、借家住まいの帝国領事館は何となくみすぼらしく国旗の影も寂しげであった。途中行き通う男女の風俗も支那式とはやや異なる。とくに夫人が住吉踊の大笠を冠っているのも珍しい。どうしてもコチラが本家で渡唐僧か何かの御土産が元祖に相違ない。在留フランス人も相当にいるらしい。自動車で行違った一人に油絵から抜け出したような美人もいた。覚えず隣席小田博士の膝を叩いて「見たか見たか」とささやいたが、事実全旅行を通じてこの時ほどの美人に出会ったことはない。博士もすこぶる同感であったらしい。

その付近には総督政庁もあった。シットリと落ち着いた建物が綺麗で芝生を前にして厳然と構えている。囑目【しょくもく:目を向けること】の植物は多く椰子【やし】、檳榔【びんろう】、榕樹【がじゅまる】、護謨【ごむ】、菩提樹【ぼだいじゅ】の類で日もなお暗い程枝葉を差し交わしている。

やがてカラリとした場所に出ると、そこは白日を浴びて小波きらめく小湖(プチラック)である。湖面の広さは不忍池くらい、片隅の小島に弁天ならぬ祠堂が建てられている。その昔支那の覊絆【きはん:束縛されること】を脱した黎朝の祖・黎利(レエロイ)にこの池の主が一口の剣を授けたという伝説に因むとの話、土民崇拝の的となっているらしい。池畔の花売店とそのショップガールもまた捨てがたき点景であった。

それより支那人街を一巡し東洋学院付属博物館に赴いたが、自動車の列次が不揃いで途切れ途切れとなった。我輩の車はご丁寧にパンクまでしたが、それでもどうにか博物館に集合だけはできた。
館内には東洋各地の珍宝佳什【ちんぽうかじゅう:珍しい物品や優れた書籍】が所狭しと陳列され、いずれも貴重の資料であるらしいが、専門家以外にはあまり興味もない。ただ配偶女神を抱く西藏秘仏のシヴァ荒神だけは例の挺身隊連中にとって見逃せぬ代物であったであろう。留学生の金君(キンユンクン)が説明の労をとってくれた。

それより徒歩ルネッサンス式の市立大劇場を仰ぎ、ボールベール街から一寸したカッフェの街頭進出状況などを眺めながら大百貨店(グラン・マガザン)に入る。美々しく着飾った仏人売子(ヴァンデウース)が愛嬌を振りまいている。スイスの時計、パリの宝石、リヨンの絹織物、ボルドーの葡萄酒、アルケスの刃物、さては日本の薩摩焼、象牙彫刻品、など陳列されているが本国人使用に基づく店費の関係で物価は割高とならざるを得ぬ。殊に一品ごとに帳場を経由しなければ絵葉書一枚渡してくれぬので、忙しい時には気早の顧客をイライラさせる。もっともパリにでも洋行したつもりで悠々とフランス美人を賞翫するつもりなれば格別だ。

このグラン・マガサンを出たところが先刻通過した小湖(プチラック)である。池畔の緑樹がたまらなく風致を添える。郵便局に立ち寄りわざと通訳ぬきで郵便切手を買ってみたが、物事は窮すれば通ずで何とか要領を得る。とにかく外国語に臆病な邦人はその方面では至って心臓が弱い。やはりブロークンでも大胆にブッツかるに限る。

単独に自動車をやとって支那人町方面に出かけ、香水白粉などを買求めたが大百貨店と同様の品がはるかに廉価である。コテーの煉白粉は60セント(約金一円)からある。葡萄酒が20セント、30セントというから驚く。邪魔にはなるがこれも参考のため30セントの分一本をブラ下げて本船まで帰った。
昨日石川老から御話のあったハノイ名物の透かし入り扇子を購う。十本20セントから30セントである。美術品といえば美術品だが、あまり廉いので御土産にも致しかねる。

正午頃日本旅館の下村洋行で日本人会側から午餐を頂戴する。「ネム」と称する一種異様の御料理は少し食い過ぎるほど満喫した。市中往復の間に、五銭(ジワイ)十銭(モハウ)二十銭(ハイハウ)一時間(モツジョイ)など地方語を覚えた。坂本老と絵葉書を会に出て、帰途相乗りの人力に乗ってみたがこれも経験の一つ、金5セントを支払ったが別に悪い顔もしておらぬ。
ハノイに都城が設けられたのは6世紀頃で、その後1427年黎利(レエロイ)と称する者、大越国を剏建【そうけん:建国すること】しこの地をトンキンと称した。ハノイとは近代になっての名称で、仏領になる以前には安南の一都城であった。1882年仏国はトンキン全体を占領してこれを保護とし、1886年、ボールベール初代知事として、統治に従事し、爾来年々殷賑を来し、総督府その他すべての地方行政機関および警備隊駐屯している。人口15万植民地文化都市として代表的のものである。

ハノイより雲南に向かう雲南鉄道は延長220里、1910年4月開通した。雲南との物資交換はいずれも本鉄道を利用する。その通過貨物年額3億フランに上るという。ソンカイ河の存在と共に特に記憶しておかねばならぬ。

これで大体ハノイ見物を終わって停車場集合、ラコロンジュ氏の好意による記念撮影をなし、午後1時10分発車、駅頭には潮見、下村、小田、菊池など在留邦人の見送りあり、午後3時10分ハイフォン駅着、ただちに帰船、横山翁はじめ竹内、石山、その他の諸氏に見送られ、午後4時45分出帆したが、石川令嬢の姿が見えぬので失望した青年もある。エージェントが桟橋を離れた本船に取り残され、モーターで上陸したなぞも時にとっての愛嬌であった。

一行ハイフォン碇泊中団員の一人が浴衣がけで、シカモ尻を押しまくっている風体を安南巡査が陸上から眺めて、事務長を通じて注意したとの事。碇泊中だけは浴衣姿を遠慮してもらいたいと思った。

東洋学院附属博物館の当時の外観。

それにしても、驚くべき強行軍だ。ハイフォン港停泊中に、ハノイを日帰りで観光しようと言うのだから。しかも、滞在時間は実質数時間だ。日本人の好奇心の旺盛さ、貪欲さが良く現れていると思う。
三巻俊夫は、ハノイの風物を牧歌的に写生しているが、この時の訪問からわずか4年後の1940(昭和15)年には、宗主国であったフランスがナチス・ドイツに降伏し、太平洋戦争開戦を待たずして、ベトナムに日本軍が駐留することになる。この空白期間に、ホー・チ・ミンの率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が力を付けたことが、第二次世界大戦後のベトナム戦争へとつながるのである。
ベトナムは、覇権争い、戦争、イデオロギーに翻弄され続けることになるのだが、いまだに親日派が多い。不思議な縁を感じる。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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