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赤道を横切る:第10章 仏領印度支那概説

仏領インドシナを去るに臨み、今少しくその全般について認識しておく必要がある。前掲盬田氏談との重複をいとわず概括的に記述する。
仏印はアジアの東南隅に位する大半島で、北緯8度より23度、東経98度より107度の間に展開す。その面積内訳左の通り。

交趾支那 64,700 平方キロメートル
東京 115,700 同上
安南 147,600 同上
東埔寨 181,000 同上
老撾 231,400 同上
計 740,400 同上

交趾支那【コーチシナ】:古く、ベトナム北部のホン(ソンコイ)川流域の地方をいう。中国、前漢の武帝が南越を平定後、久しく中国の支配下にあったが、一〇世紀末に独立し、しだいにその領域は南方に拡大して、インドシナ東海岸地方をも含めて交趾と称するようになった。
東京【トンキン】:インドシナ半島、ベトナム北部一帯のヨーロッパ人による旧称。現在この名はまったく用いられない。一九世紀末からフランス領インドシナの一部となり、一九四六年ベトナム民主共和国が成立。デルタ地帯を中心に水田の二期作が行なわれる。中心都市ハノイ
安南【アンナン】:一九世紀後半に、フランスはベトナム植民地を三つに分け、阮朝の王権を認めたベトナム中部の地方を保護領とし、アンナンと称した。
東埔寨【カンボジアのこと】
老撾【ラオスのこと】

人口は約2000万人(1平方キロメートルあたり27人)内仏人約3万人、支那人415万人である。

山脈は西蔵【チベット】山系の分脈で、北部一帯は特に崎嶇重畳【きくちょうじょう】しているが、国内を通じて3000メートル以上の高山はない。その一支脈はラオスより南下して安南を縦貫し交趾支那の境において尽き、安南において断崖絶壁となっている。天産物の大部分はこの山脈に包蔵せられる。

河川には江河(ソンカイ)、タイビン、湄公(メコン)など著名である。江河は支那雲南省付近に源を発し東京湾に入り、タイビン河も同じく東京にあり、海防(ハイフォン)に至って海に注ぐ。メコン河は源をチベットの高原に発し、雲南、上緬甸【上ビルマ】を貫きラオスと暹羅【シャム:タイのこと】との境をなし、カンボジアの首府ブノムベンより南シナ海に注ぐ。全長約4200キロメートル(2600余マイル)ほかにドナイ河は交趾支那にあり。安南との境に源を発し、ソンラニヤ、サイゴンの諸河を合してサイゴン市より海に注ぐ。サイゴン、シヨロンの繁栄は本河流の恩恵に待つところ多大なることは言うまでもない。

平野はメコン河流域地方(交趾支那のほとんど全部とカンボジアの中央部)江河流域地方(トンキン三角州全部)沿海地方(安南の中部および北部沿岸)に分かたれている。これらの地域はいずれも海抜数メートルにすぎず。地味肥沃にして農作に適している。

翻って当地方の歴史につき年代的に摘記すれば。

第5世紀 カンボジアにおけるクメル王朝時代
第9世紀末 アンコール
968年 安南王朝安南に建設
第12世紀 カンボジアの交趾支那および安南征服
第14世紀 クメル朝の没落
1428年 支那中間治世後の安南朝の復興
第15世紀 アンコールの廃棄
1568年 南部安南交趾支那と等しく主権国となる
第16世紀 葡萄牙【ポルトガル】人およびオランダ人カンボジアに入る
第17世紀 南部安南人交趾支那を侵掠す
1787年 フランスと安南との条約(ツーラヌ港および同半島並びにその近接諸島獲得)
1801年 嘉隆トンキンに立つ
1846年 安南人のカンボジア撤退
1858年 ツーラヌにおけるフランス艦隊安南軍を破る。翌59年サイゴンを占領す
1862年 安南、フランス、スペインの条約(フランス交趾支那の辺和嘉定美湫の三州領有)
1873年 ガルニエーのハノイ奪取
1874年 仏安条約により交趾支那6州を完全に仏の支配下に置く
1882年 リヴィエール、トンキン進撃
1883年 リヴィエールの戦死、ボネ大将ソンタイ占領
1884年 仏支の葛藤表面化し、クルベー中将の遠征となり、仏安条約締結せられ安南トンキン共にフランスの保護国となる
1885年 天津条約ならびにその後の協定により支那とトンキンの境界画定
1893年 シャムとの国境につき紛争起こり条約協定をなし、ラオス、フランスの保護国となる
1899年 フランス支那より99ヶ年の期限をもって広州湾を租借す

以上は仏印の歴史梗概ですなわち現在においては交趾支那を植民地とし、カンボジア、アンナン、トンキン、ラオスを保護国とし、広州湾を租借地としている。しかして欧人が初めてカンボジアに入ったのは第16世紀頃で、我国御朱印船貿易の活躍時代と年代においてあまり大差はない。公然御朱印状の下付を受けたものは慶長9年(1604年)に始まり、この年安南4隻、トンキン3隻、翌慶長10年安南3隻、トンキン2隻が記録されている。すなわち17世紀の初頭からとなっているが、日本船の交趾渡航は記録の上では天正5(1577)年頃まで遡ることができるとの事だから、邦人の仏印入りもまた16世紀に始まり、あえて西人に遅れをとっている訳ではない。既に家康に先だち秀吉も文禄元年(1592)年、朱印状を下付したと伝えられている。しかしてその御朱印船の出入りした港は前掲ツーラヌならびにファイホーの2カ所であった。

ファイホー(又はフエフオ)はツーラヌの南33キロメートルにあり、坡鋪とも會安とも書く。一時は六十戸以上の邦人家屋があって二百四五十人の在住を見たという。ツーラヌは茶麟とも茶龍とも記し、現今においてもフランス・メールが寄港している。

交趾の隣邦カンボジアにも御朱印船が渡航した。その交易場所はメコン河の上流173マイル、在の首府ブノン、ベン(竹里木)であった。全盛時七八十戸三百人内外の邦人在留者があったと伝えられる。このまま御朱印船の渡航を継続していたならば邦人の発展は更に一層著しきものがあったであろう、怨めしきは鎖国の禁令であった。

仏印全体として輸出品の大半は米とし、ゴムも相当の生産があり、乾、塩、燻製魚、石炭、玉蜀黍【トウモロコシ】、胡椒、漆、亜鉛鉱、生獣、コブラ、チーク材などこれに次ぐ。
輸入品としては、綿織物、機械器具、石油類、各種金属品、絹織物、鉛類、自動車及び部分品、煙草、綿花、葡萄酒、化学製品などがその主要なものである。

なお国内には金、鉄、銅、鉛、錫【スズ】、宝石類などの鉱産物豊富でその開発を待っている。日本の資本と技術とをこの方面に利用せしめたらば彼我の利益は少なくあるまいと想像せられる。

ハノイ、サイゴンを一瞥して、その市街の小奇麗なことと劇場やレストランの小意気な事はさすがにフランス風と首肯した、しかし何となく活気に乏しい。在留仏人も本気で統治に没頭しているのか、三年に一度往復10ヶ月の帰省を待っているのか分からぬ。役人も銀行会社員も相当以上のお手当を頂戴に及んでいるが、その割合に能率は上がらぬ。商店なぞはその経費を商品にかけるからベラボウな高価となる。それにしても気の毒なのは被統治国人民で仏人一人当たり年収5000ピヤストルに対し土民はわずかに平均46ピヤストルだという。ロクロク教育もしてもらえずに人頭税一年6ピヤストルを徴収せられる。それが出来なければ人夫として道路普請を強制せられる。少し生意気をすると投獄される。かつては相当に反抗の歴史を持つ安南人がいつまでも今日の状態を持続するか否かは疑問である。

写真は、当時のサイゴン・ノートルダム寺院。その壮麗さがうかがわれる。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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