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赤道を横切る:第9章 西貢

午後0時45分、西貢【サイゴン】岸壁繋留、ハイフォンより813カイリ、領事代理の手塚浩介氏を初め盬田【しおた】、東池の諸氏に出迎えられ、まず盬田氏からサイゴン事情の大要を講演してもらうことにした。

その梗概として記憶に止まった部分を拾い書きすれば、まず仏領インドは広さ740,000平方キロ、人口2,150,500人、すなわち土地は日本全土とほぼ同じく、人口は朝鮮と似たり、5ヶ年平均輸出入20億9800万フラン、内対日本貿易は輸入1850万フラン、輸出5052万フラン、在留邦人148(内朝鮮人21、台湾人18)右記は5月より11月までで降雨日数74日、過去22年間平均温度27.6(最高40.0、最低14.7)76年前仏領となり、現在にては東洋のパリとも極東の真珠町とも称せられと言うくらいの話であった。

事実サイゴンは欧州方面に対する門戸で仏印走貿易の7割までを呑吐し、政治上に経済上にその中枢をなしている。加えてメコン河はじめその他大小の河川によりカンボジアやラオス等奥地からの産物集散し、米穀取引市場として有名なるシヨロンもサイゴン郊外にある。
この日のホーチミン見物は午後2時20分から始まって午後4時30分に終わった。乗物は自動車で各班別に分乗ということになり、大分統制が取れてきたのは嬉しい。桟橋から市街に通ずる道路に日本人の経営らしい曖昧屋【あいまいや:表向きは宿屋や飲食店だが買春をあっせんする怪しげな店のこと】が目につく。娘子軍【じょうしぐん:明治時代に娼婦として東南アジアに渡った婦女子を指す】全滅の今日まさか公娼はおらぬであろうが、何れは紅灯緑酒の間適当に媒合【ばいごう:男女の間を取り持つこと】を業としているのではあるまいか等とささやく団員もある。

サイゴン市に入ればさすがにフランス流の建物や街路が整然と続く。ハノイが仏印の首都とのみ考えていた我々は、サイゴンが経済的にも政治的にもハノイを抑えているような気持ちを持ちうるようになったのは不思議である。サイゴンには三階建ての建物もそうとう多い。普通の道路は台湾の停仔脚(ただしそれには建物がかぶさっておらぬ)に似た歩道を左右に中央一段低く車道がある。面して歩道にはタマリンド(洒落て書けば王龍膽)やネムやアカシヤやチークやサルスベリやが青々と茂っている。メーンロードは中央に照明灯並列の一線を置いてその左右に車道二列、さらに並木並列の一画を隔て歩道二列もあれば車道四列歩道二列もあり、近代的都市としての体裁はハノイ以上であり、もちろん台北の三線道路なぞの比ではない。

市の中央に位する大寺院広場(プラスードラカテドラル)にそそり立つ天主公教会堂こそ有名なるノートルダームで、7年の歳月と200万フランを費やしたと伝えられる。その直前には安南王を擁したアドラン僧正の立像がある。僧正はルイ16世の頃布教のため渡来し、孤立無援の嘉隆(ジヤロン)王を援け、大南国を確立せしめた。この広場から西南約二町の並木道をへだててルネッサンス式の総督官邸が見える。官邸は1867年の建築470万フランを費やした。この広場は実に気に入った。総督庁舎とか総督官邸の付近は官舎や住宅を遠慮してこの位の広場にしておきたいものだ。何となくユッタリと余裕があってよい。

一行はこの広場からほど遠からぬ動物園を兼ねた植物園に入り、その一部にある博物館を見物し、仏像や石像に満腹して後、小雨降る中を園内徒歩、いわゆる名も知らぬ植物を打ち仰ぎつつ南国気分に浸る。白いものを塗った安南婦人もいる。ワニや大蛇は本場だけに珍しくもない。この付近の並木はヤオと称し油がとれるという話を聞く。

先ほどの大広場からサイゴン河に達する大通りがサイゴン目抜きの街路であるらしく、その両側はタマリンドが常緑の陰を投げている。これを点綴する家屋は桃色、淡緑色浅黄などとりどりに美しい。げにサイゴンは、寺院に、劇場に、花壇に、銅像に、パリの縮図とも言いうる。ことにカフェーの街路進出とも称すべき歩道に並べられた幾百の椅子は一行の好奇心を満たすに十分であった。

自動車の一隊は市街を東西南北に馳せちがいながら、縦に横に十分サイトシーイングを終わり、更に郊外に出でシヨロン市をたずねた。シヨロンは明末広東福建の支那亡命客集団を成したのに因を発し遂に今日の隆盛を見るに至った。すなわちシヨロンは支那街で、人口20万、米穀取引地として繁栄している。運河の両側は精米所や米穀商をもって充たされ、土人苦力が盛んに荷役している。我輩も一寸本職に立ち返ったような気分で見守っていた。

シヨロンからの帰路無電局や飛行場のほとりを過ぎ、きわめて狭い土地ではあったが護謨【ゴム】園の一部も車上から眺めて一応帰船した。この間に団員中の製糖会社有志は往年の眞室幸教氏経営の糖業地を視察すべく75キロの郊外に遠征せられた。

この夜は自由行動とあって夕食も済むか済まぬに、イヤ夕刻をも待たず挺身隊活躍が開始せられた。我々は盬田氏の案内で夜のサイゴンを見直す事となったが、支那町方面を省略したためその方面における団員の享楽ぶりは遂に目撃することはできなかった。肝心の案内役が品行方正の堅造と来ているので一向我々共を満足さすような箇所は誘導してくれぬのをもどかしがった者もある。それでも兎も角郵便局に立ち寄ってその執務ぶりも観察し、紅毛人のそれらしい魔窟の様子も窺い、ビヤホールの気分も一寸経験し、最後に蝸牛【カタツムリ】のフランス料理も試みた。それはサイゴン河に突出した地先の一角名づけてPinte des Blagneuis(ポインテ・デ・ブロキールス)を邦人は「デタラメポイント」と称する場所で、睦まじそうな仏人男女が喃々(なんなん)するあたりで挺身隊連中とは異なる意味における冒険むしろグロ味タップリの悪食を試みて無事帰船した。

翌10月12日は午前11時まで自由行動とあって二三子と共にGrans Magasins Charner(グラン・マカサン・シャネール)と称する百貨店に至り、某氏夫人注文のベルベットを購入する。それが果たしてフランス舶来の上等品であるか否かは分からぬが、何が何でも委託品として携え帰る必要ありとの事、よって我輩もおつき合いにコート用として4ヤール頂戴に及ぶ。売子は混血婦人らしく英語を解せぬ。ようやく英語の分かる店員を拉し来たり双方覚束なくも談判の末、1ヤールは0.91メートル、4ヤールで3.64メートル、1メートルにつき4.25ピヤストル即ち4ヤール15.53ピヤストルと算盤が出る(邦貨換算金26円16銭)そのまた4ヤールが5人分とあって、一々4ヤール宛て分割し計算を支払うまでには相当の時間を要した。4ヤール26円が高いか安いか知らぬが、ご亭主連この買い物にはよほど骨が折れた事だけは承知してもらいたい。

その帰途昨晩のデタラメポイントでビールのコップ飲みを試みたが、ヤハリ昼間はトント調子が出てこぬ。昨夜はハイフォン以上の出来事があったらしく、中には車夫を集めて盛んにビールを振る舞い「いずれその内安南総督になって来る」と大気炎を揚げた勇士もある。

午前10時船内にて茶話会開催、手塚領事代理や加藤商工通信員、小山日本人商業会議所員なぞのお話を承る。領事代理はハノイに総領事駐在ありてサイゴンには現在領事さえ欠員の現状に不満の意を漏らされ、かつ在留邦人の心得についてもある種の意見を述べられすこぶる同感であった。とにかく領事なぞはどこでも世評のうるさいものであるが、当局となってみれば言うに言われぬ苦心が存在するものだ。総じて人の噂だけで、その人物を判定しては相成らぬ。午前11時10分サイゴン港出帆、見送り邦人の中に奥田、赤塚の両婦人がいる。昔は鶯啼かせた事もあるであろう。

本船が満船飾をしているのは仏領インド総督帰任歓迎のためである。果たしてその乗船アラミス号とは午後1時半頃行き逢った。甲板には美々しく着飾ったフランス美人も多数見える。かえりみれば鳳山丸は観光客を満載しながら一人の婦人もおらぬ。まったく貨物船も同様であるのはいかにも潤いのないことである。午後3時30分河口水先所着、水先人下船、この報酬600ピヤストルと聞いて呆れる。もっとも本人らは官吏として俸給を受け政府はその上前をハネる事になっているものらしい。この日スコールあり、東の軟風小浪、気温80度。まだ少しも南洋らしくない。

一行を乗せた鳳山丸はサイゴンに到着する。当時のサイゴンは、「東洋のパリ」「極東の真珠」と呼ばれる美しい都市だった。写真は、当時のサイゴン市街だが、たしかに整然と伸びる大通りと街路樹はパリを思わせるものがある。その後、ベトナム戦争を経て、この都市が「ホーチミン」と呼ばれるようになるとは、誰も想像だにできなかったことだろう。

一行が洋上で出会ったフランスの豪華客船「アラミス」。この「アラミス」は第二次大戦の勃発と共に本国フランスに帰ることもできず、ベトナムに置き去りにされ、日本が当時のヴィシー政権と交渉して借り受けることになり、病院船「帝亜丸」として運航されることになる。その「帝亜丸」も1944年に米国潜水艦の攻撃を受けて沈没してしまう。

ところで文中に当時の邦貨が出てくる。「ベルベットを4ヤール買って邦貨で26円だった」とか。だいたい当時の1円が現在の2500円くらいではないかと、私は考えて読んでいる。フランス産のベルベットが26円とは、現在に換算すれば、約6万5千円。意外と的を射ているのではないだろうか。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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