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赤道を横切る:第4章 香港・澳門

(広東からの帰途)午後4時50分発車、同7時50分九龍帰着、直ちにフェリーで香港側に渡ったが、ピークから街にかけての電灯が以前よりよほど数を増したようですこぶる美観を呈している。ただウエストポイントの不夜城地域がさびれているのは何となく物足らぬ。台銀の大野支店長がわざわざ九龍まで出迎えられ、その拉致されるに任せたが、やがて案内されたのは「ちとせ」と称する日本料亭であった。さっそく日本風呂を頂戴におよんで浴衣に寛ぐと、もう天下を取ったような気持ちでとても嬉しくなってくる。ゴルフ仲間の三井の早崎君も差しつかえ中を繰り合わせて顔を見せる。話は淡水のリンクスを中心に彼に飛びこれに及んで尽くるところを知らぬ。

この「ちとせ」こそ西の清風楼と共に香港有数の歓楽境でまんざら見覚えがないでもない。今、台北で有名な某判官の令夫人も、その昔はこの家に雌伏して居った時代もある。かつて「衆議院」の別称のあった湾仔【ワンツァイ:香港中心の官庁・ビジネス街】も現在では以前のような不体裁な公娼なぞ見る事ができぬ。何でも「ちとせ」の近辺であったような記憶もある。

ようやく御輿【みこし】が上がって鳳山丸まで送りつけられた時は夜も深更となりぬらん。屏東で金吾と言って鳴らした芸妓、台北では吟子ともじってモンパリで女給をしていた女、近頃の掟きびしい中をどう抜けて来たのか最近香港に現れて間もないらしく盛んに台湾をなつかしがり、同船の製糖会社の方に逢わしてくれと駄々をコネられたには流石の我輩も持て余した。ようやくなだめて翌夜必ずと誓って帰す事としたが、さて物騒な国柄でノンコのシャア【ノンシャラン:のんきでしゃあしゃあとしていること】と塔車【相乗り(ヒッチハイク)のこと】などでは送られぬ。怪しげな手つきで回転式自動電話にかじりつき「ハロー」とか何とか自動車を呼ぶまで番兵を仰せつかったのも場所柄やむをえぬ仕儀ではあった。

10月4日は澳門【マカオ】往復となっている。同地も会遊の地ではあるが団員各位と行動を共にする事とし、本船の西、三四町のほとりに碇泊している金山【キンシャン】号に乗り込んで午前9時に出帆したが、朝来の降雨で甲板にも出られず、折から日曜で超満員、いずれも賭博場に急ぐ客ばかりで1800人、金山号のレコードだと活動(写真)に出てくるような事務長が両手を胸のあたりで開いて肩をすくめる。

澳門は香港の西40カイリ、3時間で到達する。広東省香山県の南端に位し、1887年以来葡萄牙【ポルトガル】領となり、東洋のモンテカルロと称されている。面積約11平方マイル、人口約8万、内ポルトガル人約4000、ただし支那人との混血多数を占めている。

海上から望んだ澳門はちょっと汕頭あたりの様子に似て小ぎれいに見える。15、6世紀頃支那沿岸唯一の貿易港として知られた歴史を有している割合に港内狭隘水深も充分でないらしく、いかにも本国の国勢衰退に伴ったとは言いながら、これでは香港に繁栄を奪われても致し方はない。澳門政庁は歳入補てんの一方法として賭博を公許し、その税金によってバランスを取っているが、支那人の本場たる広東でさえ賭博を厳禁した今日、いささかどうかと思うがさりとて他に代わるべき財源もなし、世界における特異の存在として認められている次第、観光客としては目先が変わって面白い。

下船した一行はエージェントに導かれて先施公司の東亜酒店楼上に至り、支那料理で昼食をしたためる。この楼上からは澳門港の全局を眺望する事ができて仕合せであった。
食後市中見物となったが、全市にわずか20台の自動車が思うように集まらず、大分ゴタツイたが、結局二班に分かれて居残り組はその間に例の公許場へという事になる。広東では万事居留民会のお世話で心配することもなかったが、エージェントそれも珍芬漢【チンプンカン】を相手にしては要領を得ぬ。団員の統制もまだ取れてはおらず、早い者勝ちの有様ではせっかく各班に分かった功能はない。

我々はまず居残り組となって半分だけ送り出し、市中と言っても別に変ったところもなく純然たる支那町を歩いて、相当大構えの賭博場に案内される。型の如く階下で開帳してその周囲を大勢取り巻いているほか、二階からも三階からも随意に参加できる仕掛けになっている。目色毛色の変わった紅毛人から支那人の老若男女いずれも血眼になって必死の有様、大テーブルに並べられた紅白とりどりのマークが錯綜して何が何やら分からぬ中に勝負がついて金銭の取引がスムースに行われる。見たところ従来の方法に日本の骰子【サイコロ】を加味したやり方で余程複雑している。

よほどの通人でない限り的確な説明は困難と思われ、一行の誰も了解できぬらしく手を出す者もない。ふとその隣席を見やれば、有った有った、それこそ御馴染の「シイコシイコ」いう奴で、一から四までの何れかに賭ける。その中間に置いて両天秤にかける複式の方法もある。但しこれは配当率が半減されること申すまでもない。この方法は最も簡単でかつ必勝法がある。大体チャンスは4回に1回の割に来る道理だが、その日の当たり運で2とか3とか特に多く出る目がある。それを狙って尻上がりに賭けていけば間違いない。

卓上に小型の碁石のようなものを二握りばかり積み重ね、その上を盃形の金物で蔽いながら客の張るのを待つ。やがて金物を取り除き、長い箸で碁石を4個ずつ傍らに片寄せる。仕舞に残り少なくなった時、気の早い連中はワット言う。最後に残るもの1か2か3か乃至4か何れかに帰着する。それ以外のものは全部同元に巻き上げられ、命中したものには掛け金の3倍から1割の手数料を差し引いたものだけくれる。

傍人の記録を覗いてみると比較的「三」が多く出ている。早速1ドルを三に張ると失敗、更に2ドルを三に張って又もや失敗、モウ一つ押せと今度は3ドルを三に張って様子如何にと見てあれば見事的中、8ドル10セントを渡してくれた。この3ドルを張るとき5ドル札を出して3ドルだけだよと念を押したが釣銭をくれぬ。5ドル札の上に妙なマークを2つ置く。これらは当たらなければ2ドルだけの釣銭を返し、当たればそれに相当する金額の外に2ドルを返すという寸法で少しも無駄をせず、碁石の出し方、数え方、金銭の並べ方、渡し方など終始無言裡に少しも慌てず、急がず、悠々緩々たる間に手際よく運んでいく。その無表情な仕草がいかにも興奮の客筋と対照して面白いコントラストである。

右様の始末で3ドル捨てて8ドル10セント頂戴に及んだから差引5ドル10セントの儲けとなったが、更に利口に廻れば毎回張らずに、ここぞと思う時だけ同じ数を押していけば先ず失敗は少ない。第一班と交代の時間にも近づいたので、一同と共に割愛して引き上げたが、時間さえあればさらに一稼ぎ出来たかも知れぬ、市中至る所彩票広告が目につく。流石に賭博国だけに彩票まで各種のものがある。中に慈善彩票と称するものは頭彩二十五万元、二彩十万元とあった。支那字と洋語のチャンポンとしてビクトリーシンシア―(威多利先施)などはその一例である。

桟橋前で折から帰着の第一班と交代して自動車に分乗、市街を通りぬけて住宅地方面に出で、総督官邸、澳門大学、ヴァラ堡塁などを横目に見てカモエンス公園下車、この地では名所となっているらしい洞窟を観覧に及び、記念撮影を試み、サンポーロ寺院跡通過、この寺院は1594年建築1835年火災のため灰燼に帰し、わずかに残る20本の大石柱のみが在りし日の原形を物語っている。ちょっと下車してもよいと思った。中には気づかずにいた連中もある。

それから海岸通りを迂回してようやく以前の桟橋にたどり着いたが、道路の清潔さと住宅の瀟洒なのは大に気に入った。誰かが市中に「日夜不收皮」とある看板を見つけてその意味を詮索している。我輩は皮は被ですなわち覆被を片づけぬという意味で昼夜休みなしと言う事だと解釈しておいたが実は甚だ怪しい。あえて支那通の示教を待つ。

午後5時再び金山号で澳門出帆、同8時香港に帰着したが、船中ではその日の勝負で二三百ドルも稼いだという妙齢の支那夫人もある。身分は明らかではないが恐らく只者ではあるまい。往航の時から男性に取り巻かれて居ったがその応接の態度が冷淡でもなく馴れ馴れしくもせず、つかず離れざる要領すこぶる心憎い。復航では船が桟橋に横づけとなるまで麻雀で争って居った。

香港埠頭では三井の早崎君に迎えられて自動車に押し込められる。台糖の中村君を探せとのことであったが混雑中で判別がつかぬ。本船間近になってようやくその姿を見出し無理やりに缶詰の仲間に入れる。さて案内されたところは眼と鼻の清風楼、以前は東京ホテルと道路を隔てて相対していたが、今はホテルと合併し二階が散財部屋になっている。女将は日本行とあって不在、アノ妖艶な姿に接することが出来なかったのは残念。昨夜の吟子女史しきりに嬉しがって台湾脱出の一場を物語る。この家の金弥と言うのは昔顔馴染でもあり会見を希望すると照国丸のアトホームに行っているという。無理に招聘に及んでもらって引き合わされると、ナントそれがアカの他人で人違い、聞けば年齢は三十五六歳でも二代目金弥とあって、先方も照れる。こちらも間が悪い。シカモ相手はシャンはシャンでもお婆シャン、いささか自尊心を傷つけられたらしく程なく消え失せたのは気の毒であった。

三巻俊夫のバイタリティーには舌を巻くほどです。香港に着いたと思ったら、朝から大陸側の広東を列車で往復。夜の香港に繰り出し、友人知人と宴会をして午前様で帰船。しかも、そこには女性が同行してひと騒動。翌日は、朝からマカオ往復です。初めて見るサイコロを使ったゲームをあれこれと「分析」しているところに、ギャンブル好きな我が血筋を見る思いがします。夕方、マカオから香港に戻りまた「夜遊び」をしています。三巻俊夫は、決してただの石頭ではなかったようです。写真は、マカオの市街です。

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