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【た】 多数派と少数派

僕はいまマレーシアのイポーというところに住んでいて、滞在歴はすでに5年を超えた。5年もいると、食事や移動、床屋とか病院とかそういうのにも慣れて、まあほとんど不自由がない状態で海外で暮らすことができている。こういう風に書くとちょっとカッコよく見えてしまうかもしれないけれど、もっと正確に言うと、不自由な状態に慣れていくということでもある。

これは海外で長期間生活をした経験のある人にはわかってもらえると思うんだけど、日本では普通に、いとも簡単にできていたことが、すごく難しかったり、やもすると不可能だったりする環境に対して適応していくということだと思う。

軽く炙った鯵の干物で旨い純米の日本酒を冷やでキュッと飲るためだけに、どれだけの労力と情報収集とお金が必要か、という話だ。

逆に「日本では滅多に経験できないだろうな」ということが簡単にできたりすることもたくさんある。
特に僕が住んでいる東南アジアでは、「日本で30年前は全然平気だったのに、今は無理だろうな」ということが比較的自由にできる印象が強い。

例えば、うちの会社の年に一度の全社大宴会では、必ずミスコンがある。マレーシアにはイスラム教徒のマレー系と中華系とインド系の3つの人種が生活しているんだけれど、各人種から選抜された10名ぐらいの女性たちが、みんなそれぞれオシャレなドレスを着て、ステージに上ってアピールをする。それを社員が採点して今年のミスを決めるんだけれど、これは男性社員が企画するわけじゃなくて、彼女たちが自主的にやったりするので、男性も精一杯の声援を送ることができる。
これは現在の日本の会社では相当難しいことなんじゃないかと思う。

またマレーシアには中華系を中心に「打包(ダパオ)」という文化があって、これはレストランで食べ残したものを無料でテイクアウトできるシステムで、料理の質や残った量に関わらず、リクエストすれば何でも持ち帰り用の容器に入れて持たせてくれる。インド料理でもマレー料理でも同じだ。料理の種類を頼みすぎて食べきれなくて残してしまうという罪悪感を持たなくて済むし、次の日の夕食のおかずやつまみになるのでとても便利なのだが、これも手間や衛生上の問題で、日本では難しいだろう。

このようなプラスマイナスを楽しむというのが、海外在住の醍醐味なんじゃないかと思う。

現地の人にもとても親切にしてもらって、あまり不自由のない楽しい生活を過ごせているけれど、僕はマレーシアでは外人で、少数派である。

僕の中学校のときの部活動は、花形であるサッカーやバスケットボールではなく、あえてハンドボール部に所属していたし、その頃から割と真剣にバンド活動を始めていたんだけど、最初からみんなが知っているようなバンドのコピーをやるのではなく、ハードロックのギタリストだったりしていた。
僕は今年で50歳になっていて、30年以上前の高校生だった頃の学園祭では、ボウイとかブルーハーツとかをコピーすれば、合唱も起きるし盛り上がるのはわかっていたんだけれど、敢えてレインボーやオジー・オズボーンのコピーを演ったりしていた。女子高校生の誰がオジー・オズボーンのコピーで喜ぶんだ?ということは頭ではわかっているんだけど、行動が伴わなかった。

昔から多数派に所属するのを意味なく避けて、少数派に身を投じるという癖があったので、僕は少数派ならではの楽しみ方を知っているつもりだ。

まず少数派は、仲間を大事にする。もともと少数派なので、更に分裂してもっと小さくなることを本能的に避けるので、絆がとても強い。

次に多数派の人たちのほとんどは、少数派に優しい。これは意外に思うかもしれないが、多数派の人たちの95%以上は、僕ら少数派は自分たちの価値観とは合わないことが最初からわかっているから、そういう話題は避けてくれたりする。
AKBの推しは誰?みたいな、いつも彼らが盛り上がっているような話題に対しては、我々は牙を剥くことがわかっているので、敢えてクラスの女の子では誰が可愛いと思う?みたいな話題に切り替えてくれたりする。

間違えてはいけないのは、多数派の人が全員少数派を敵視したりイジメたりしているということではないということだ。
多数派の中にいるごく少数が、多数派の中でも自分はちょっと違うなという違和感を感じつつ、かといって少数派に属するほどの根性もないという中途半端な連中(こういう人たちを「えせ多数派」と呼びます)がこういうことをする。総数の5%もいないので、少数派としてはこんな連中と付き合うメリットもないから当然無視する。その結果彼らは卑屈になって攻撃を始めるのだ。

よく言われるイジメや差別なんかはこの「えせ多数派」が無意味に少数派を非難したり攻撃したりするということのように思うので、決して多数派が悪いとか少数派が悪いとかそういう話ではない。

世の中の仕組みやシステムは、総じて多数派に対応するようにできている。これは間違いなく事実だ。

外人である僕は、マレーシアに滞在するためにはビザが必要で、これが切れたら国外に出ないといけない。ホテルに宿泊するにも、外人のみに適応される旅行税の支払いが義務付けられているし、観光施設では入場料が現地人と比べると倍近く取られる。例え永住権を取得したとしても、選挙権が与えられるわけではないし、住宅の所有にも一定の金額以上という制限がかけられる。
これは法律が自国民を守るためにできているためで、至極当然なことである。

一般的にも、料理の配膳やドアノブなんかも右利きに便利なように考えられているし、椅子やテーブルの高さだって、平均値を想定して作られているはずだ。うちの会社で製造しているコンドームだって同じで、冷たい言い方かもしれないけれど、サイズが極端に大きかったり(このケースはほとんどない)逆に小さかったり(こっちのケースのほうが深刻)する人のための商品は、需要が小さすぎて大量生産には適さないので、商品化が出来ないのだ。

ただし、多数派のために作られているシステムや法律も少数派に寛容でなけれないけない。多数派は少数派の理屈を理解すべきだし、同じように少数派は多数派の理屈も理解しないといけない。

国家や団体、企業などの集合体は絶対多数の人達を幸福にするため、あるいは絶対多数の人達の人権や利益を守るために枠組みを作っているので、そのことを理解しないで、えせ多数派のごく一部の人たちや過激な少数派が持論を展開して自己の権利を守ろうとして大声を出すのは、ちょっと違うんじゃないかな、と思う。システムや仕組みがどうしてそうなっているのかも理解する必要があるんじゃないかと思う。

SNSの普及で、いわゆる少数派の意見が大きく取り上げられるようなこともあるし、それ自体はとてもいいことだと思うけれど、「えせ多数派」の意見があたかも多数派の意見だと勘違いするような報道や、そもそもシステムや体制は多数派のために作られているという事実を無視して、単純に少数派を擁護して多数派を攻撃するような報道はとても危ないんじゃないかと思う。

そんなことされても少数派にとっては迷惑でしかない、というケースも多々あるのだ。

メーカーを中心とした民間企業だって、なんかのきっかけでごく一部の人が言っているだけの批判を強烈に拡大解釈されて攻撃されるような危険性を常に持っているわけで、このおかげで商品の裏面の注意書きがとてつもなく増えたり、子供はダメだとかお年寄りは注意しろなどと、使用者に極端に制限をかけたりという、出来るだけ誰からも文句を言われないような状況作りに必死である。

果たしてこういう状況が企業にとっても、一般消費者にとっても正解かというと、僕は明らかに間違っていると思う。

僕は民間企業に勤めているので、会社や製品に対するクレームに対応したり内容を目にすることがあるんだけれど、本当に困ってしまった人だったり本気で意見をくれる人たちに対しては、誠心誠意対応をする。お客様からのフィードバックは会社を改善するきっかけにもなるし、製品の品質を向上させるヒントにもなるからだ。
ただし単なるクレーマーもいて、そういう人に関しては基本的に我慢比べのようにひたすら相手が疲れるまで話を聞くだけである。最初からお金目当てだったり、人と話したいだけだったり、誰かに文句を言いたいだけの人たちだ。特定の女性社員の担当者を狙って電話をかけてくるような人までいる。
この対応をしなければならない部署の人たちの苦労は大変なもので、彼らは0.1%にも満たない人たちのクレームが世の中に出ないために、一生懸命自分の時間を削っている。この部署に属する後輩に頼まれたら、いくらでも愚痴の酒につきあって、支払いまで済ませてあげたいといつも思っているぐらいだ。

以前は意識的に無視していたし、敢えて聞く意味もないような「えせ少数派」の意見が、ワイドショーなんかに出ているアホなコメンテーターの情報操作で、あたかも日本の大問題だったりするように報道されているのは本当に危ないと思う。やつらは時と場合によって多数派になったり少数派になったりする風見鶏で、骨のあるジャーナリストとは全く違う職種である。

またSNSの普及で良くも悪くも色んな人の意見や境遇が無意識のうちに刷り込まれるようにもなってきて、これはSNSの負の部分だと思う。

他人が努力をして手に入れた境遇が、普通の人でも簡単に手に入れられるものだと勘違いして自分のことを卑下してみたり、見たこともない人の意見が自分と違ったりした時に、その人の意見を非難する人に勝手に共感していっしょになってその人を攻撃したり、テレビでしか見たことのない人の失敗に対してあたかも自分が正義のように振る舞って個人を中傷するようなことしたりすることに何の意味があるのだろう。そんなことをするのは精神的にも時間の無駄でしかないので、すぐ外に出て道に落ちているゴミを拾うべきである。誰かに感謝される行為をしたほうがいい。

人は絶対にひとりひとり違う価値観を持っている。同じように人それぞれが違った幸せの尺度を持っているはずで、それは絶対に平等ではない。いや、平等でないという言い方は間違っていて、そもそも幸せの尺度に上下なんてないはずだ。

個人が持っている幸せの尺度になんだかんだと言ってくるようなやつに振り回されるのは時間の無駄だし、無視すればいいだけの話だ。そういうやつは絶対に幸せではないはずだと思う。

僕の住んでいるマレーシアのイポーでは、年中暑いし、お正月という習慣がないので、1月1日のNew Year Dayが祝日なだけで、あとは普通に出勤である。
1月1日にお正月気分を味わうために、日本酒を飲み、刺し身の盛り合わせを食べるためだけに、年末にイポーから200キロ以上離れたクアラルンプールまで車を飛ばして買い物に行く予定だ。

往復5時間のドライブだが、幸せを味わうためには仕方がない。

文句があるやつがいたら、うまい純米酒と冷凍マグロを送ってください。

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