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マインドフルネスの誤解

要約

マインドフルネスをやっている人が多くなってきました。コロナ過には、通常の対面よりオンラインによる授業や会議が増えたこともあります。そこでなにかしらの疲れがたまる。そして人によっては疲労に加えてほんとうにコロナに感染したひともいましょう。病気やけがが重なるとさらに回復が遅れる。そんなときにマインドフルネス。実践するひとつとして祈祷を試してみるひともいましょう。

わたし自身は、いまから4年前、2018年によくマインドフルネスを試してみました。なにがしたかったというと日常のストレス軽減となにかしらのイライラを解消しようとして試してみました。

試す場所としては成田山新勝寺を選びました。そこは真言宗の大本山と知られ、多くの仏教徒が訪れます。信者には、御護摩といわれる祈祷の時間、約30分ほどあって祈祷ができる。月に必ず一度いきました。多い時には2週間おきにいきました。

祈祷の間には、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、な(マ)む(イ)あ(ン)み(ド)だ(フ)ぶ(ル)つ(ネス)とある程度語呂がいいです。お祈りをすることでマインドフルネスの効用が期待できます。では、マインドフルネスで何が期待できるのでしょうか。

それは、集中力をアップさせることです。

ところが期待できなものもあります。祈祷に訪れる人、その中にマインドフルネスを実践しようとする人の中で何か誤解をしているようです。期待できないことを期待してしまっているのではないかということです。このシリーズでは、6回にわたりそれを書いてみます。

ここでは期待できないことを期待する誤解とは何であり、本来の効果は何かということを要約しておきます。

誤解には3つほどありましょう。まず、病気やけがが治ると勘違いしているのではないでしょうか。祈祷は医療行為ではありません。次にストレスによる疲労回復ができるのではないか。疲労回復は祈祷によっては実現しません。さらにはストレスそのものの軽減につながるのではないか。ストレスは祈祷によってはなくなりません。

それらは、ほかの方法で対処しなければなりません。

では、何をしたいために祈祷するか。それは集中力を高めるためです。集中力を高めないとパフォーマンスがでない状況はいろいろあります。例えば、チェス、将棋、囲碁といったゲームで勝とうするとき。バスケットボールで逆転の3点シュートを決めるとき。また、難度の高い手術、脳外科医による手術でありましょう。つまり、難しいことを決まった時間でするときに集中力が求められます。

やることが決まっていないといけません。

大学生であれば、受験の時に経験しています。難しい受験問題を決まった時間内に解くとき。特に数学のような計算をともなう行為。あるいは、期末試験を90分かけて受けるとき。社会人であれば、1時間の面接で自分の得意なことをさらけだすとき。また、社内外のひとに向けて30分のプレゼンテーションをするとき。

できるかどうか100%でない。普段は、何回か成功する。なにか失敗しそうな気がする。そんなときに向いています。

すべてテーマが決まっており、それを決められた時間で最高のパフォーマンスを期待するものでしょう。ところが普段からできるはずなのになにか2,3週間いらいらして、あるいは、迷うことがあって集中できないということはだれにでもあるはずです。

そんなときにマインドフルネスが役に立つものでしょう。新勝寺で何度か祈祷すればわかります。わかってくるのは、集中力は視覚でなく、聴覚から高まってきます。お坊さんの読む念仏を聞き、特大の和太鼓に真後ろに座ると集中力が増します。

時間の感覚が伸びます。祈祷で雑念を払うことができる。それが雑用すらすてることができる。それで集中が高まります。そのようなことをひとつひとつ書いてみます。

病気が治るのか

病気を治したい、けがを治したい。そのような願いをもって祈祷をする。マインドフルネスのひとつとしてお祈りをすることがありましょう。気持ちはよくわかります。

病気というものはつらいものであり、苦しいものです。自分にも経験があり、家族も経験しています。息子は、小学校のときに肺炎になり、そのときの苦しみがいまでも忘れられないといいます。そのため、コロナにかからないように警戒しています。

読者の皆さんは、病気のときに早く治おしたい、お祈りをとしたことはありませんか。わたしもそうしたい行為を理解できます。理解はできるものの、わたしの考えではマインドフルネスを実践しても病気は治りません。それは医療行為ではないからです。

国家資格をもった医師が診断をした結果、病気と指定されます。普通であれば、医師はなんらかの根拠をもって診断します。血液やレントゲン撮影からなんらかの証拠となるもの、それが悪さをしていると特定します。そこから経験や仮説にもとづき、おそらくは、この病気であろうと。病名がつきます。

そこから最良の治療方針を考え処置をします。場合によっては手術を勧めるでしょう。いきなり手術をいかなくても、処方箋を書いて薬による処方も解決策です。なんらかの証拠があって、病名がついて治療方針を出してくれます。

そのような場合には、医師に従うしかありません。お寺にきて祈祷をしても病気は治りません。けがについても同様です。

祈祷中には、家内安全、病気回復といった願い事がかないますようにということが聞きとれます。また、建物の周りには祈願できるような準備があります。しかし、これらは、あくまでお願い事であって、治療ではありませんね。治療はもとの状態である健常な位置までもどすことです。

ですので、医師から、特に複数の医師から、なにかしらはっきりとした科学的な方法により証拠があり、病名がついたのであれば、お祈りしている場合ではなく、治療方針に従って治療しなければ治りません。

おそらくそのような願いをすることで日頃から交通事故に気をつけよう。病気にならないように配慮しよう。けがに注意しようといった心構えはできます。祈祷を繰り返すと、その持続効果が長くなり、より慎重に物事を運ぶように訓練できます。損失をできるだけ少なくするようになる。ただ、あくまでもこれは願い事、心構えです。

気をつけようというのは、その場で醸成されます。ただ、お寺を離れればまた喧騒とした現実の世界。何が自分にぶつかってくるのかはなかなか予想がつきません。何日かすれば、そんなことをしたのは薄れ、あわただしい日常でひと、自転車、車をよけていかなければなりません。

ただし、気構えとして注意深くなるということだけでなく、どうも祈祷のあと、しばらく境内を散歩し、裏側にある庭園をゆっくり歩いてみる。歩きながらみごとな情景をしばらくながめて帰る。そうするとなにか集中力が高まっている気がします。

私の場合は、成田山新勝寺までは車でいきました。鎌ヶ谷市からは一般道路でも最高速度70キロまで出せます。しかも信号がありません。ドライブの好きなひとにとってはたまらないルートです。わたしはスピードはそれほど出しませんでしたけど。

祈祷をしたあとの帰路。そこで運転をするとなにか車の動きがよく見えるようになります。特に交差点において何か注意したほうがいいのではないか、ひと、自転車、対向車といったものの動きが前後左右どこからか、なにかしらの気配が感じられるようになります。これは運転をするにはかかせない予知能力のようなもので祈祷前後では明らかに違います。

そういったなにかしら普段、運転をするときに備わっているものがより強く感じられることがあります。アクセルやブレーキに対しても感覚的に早く操作できるのです。これは、集中力が少しばかりアップした結果なのでしょう。

話をもとにもどしますと、病気になってしまった。けがをしたといった場合、衝撃による損傷を受けた、あるいは、疲労が蓄積して疲労骨折のようなものになった。それが長引いて苦しい。そのようなときにはお祈りをして気持ちを静めることはできます。ただし、お祈りは医療行為ではなく、いくら願い事をしても病気やけがが治るわけではないでしょう。

かなり苦しい場合、難しい病気の場合も同様でしょう。絶望する必要はありません。ただし、奇跡は起きない。マインドフルネスで重い病気が治るという誤解をしているのではないか。そうではなく、医者の治療方針に従わなければ治りませんね。病気とマインドフルネスの関係においてはこのように理解したほうがいいでしょう。

次は、ストレスなどからの疲労回復です。

疲労回復効果があるのか

ストレスにはさまざまな原因があります。その原因により心身のバランスがくずれ、学業や仕事だけでなく、日常のささいなことがうまくいかなくなってしまいます。ささいなことさえうまくいかないとさらに悪循環になる。そこでまいってしまう。それが結構長い期間に及ぶことがあります。

3年前の今頃はわたしもそのような状態でした。大学で講義をするようになって7年ほど経ってからどうも同じような課題にぶつかり、時間ばかりが経過していきました。授業を担当する傍ら、日常では、新聞を読んでいました。それが事件、事故めいたものばかりでした。そしてその内容の検証ですら不確かで、エピソードはほんとうなのか疑心暗鬼でした。

企業勤務から離れ、特有の精神的負担からは解放されたためか、気持ちとしてはゆったりと過ごせてました。ただ、減量はまだ十分でなく、どこかほぐれない、休んだ気にならないといった感覚は残っていました。

そんなときに新勝寺にいってマインドフルネスをやってみようとしばらく通いました。

祈禱のはじまる30分くらい前から、向かって左側の端にすわり、涼しげで薄暗い空間、これは30分後も同じような空間のまま、聞こえてくるのはお坊さんの真言宗のお経でした。お経はなんど聞いても、長く聞いても音声として心地よく響いてくるものでした。それに特大の和太鼓の音を後ろで聞いていても気になりません。

ひょっとしたらリラックス効果があるのではないか、ストレスから回復するのではないかと勘違いしてしまったのです。

マインドフルネスには、ストレスによる疲労回復には効果がありません。それは身体面、精神面、物質面においてなんの好転作用がないのです。身体面からお話しします。

これはすぐわかることですが、身体が疲れている、疲労がある、というのは肉体、主に筋肉に疲労が溜まっているということです。それはほぐすことによってしか、疲労をためている原因である乳酸を減らすしかありません。マッサージをする。お風呂に使った後にストレッチをする。そのようなことをします。

また、筋肉が十分にゆるんでいて弛緩した状態であっても関節が硬くなっていたのでは、骨と骨がすれている状態であり、痛みはでます。そのようなときは整形外科でレントゲンを撮ってもらい、理学療法を使った治療を受けます。よく交通事故のリハビリにつかう治療法です。普段から関節を動かす、可動域を一手に保ち、広げていくことをしないと関節部は硬くなります。ないもしなければ、ある日突然がくっときて、動かなくなります。

筋肉をほぐして弛緩させたり、関節部を動かして可動域をひろげるようなことを祈祷中はしません。身体のリラックス効果はないのです。

身体の部位についても同じことが言えます。祈祷中にはいってくるのは、視覚と聴覚を通じてもものだけです。視覚においては座禅をしているため、空間は30分間、並存状態のままです。変化はない。当たり前ですが、視力の回復にはなるわけはありません。

聴覚においては、お経と和太鼓が不思議に心地よい音域、音帯にあるようで30分すぎると、そこから気持ちが落ち着いてきます。ただ、それは雑念(必要のないこと)を捨てるために落ち着くともいえます。ただし、デジタル音声で疲弊している耳が回復するわけではありません。

そして神経の高ぶりや落ち込み、それが長く続いた結果、興奮状態や抑うつ状態に陥ります。そうなると交感神経(興奮)と副交感神経(リラックス)のリズムが崩れ、睡眠が十分にとれなくなります。このようなときには、外には出歩かず、家で休んでいた方がいいでしょう。成田山に出かけることすら逆効果になりえます。

生活のリズムを整えると普段と同じような状態、つまり、平常心で過ごすことができる。そうなってはじめて新勝寺にいって、マインドフルネスの実践をした方がいいでしょう。というのは、祈祷では、興奮を抑えたり、リラックスをうながすような効果はなにも期待できず、必要のないものを排除することによって集中できる状態をつくることをめざしているからです。

これはこうやっていうのは簡単ですが、実践するのはとても難しい。というのは、(やや脱線は覚悟して)、いまはリズムを整えるのがとても難しい時代になってきたからです。

そのひとつに7~9月にかけての30度以上の猛暑日が続くことです。東京では、すでに5月から28度を超える日があり、それが10月上旬まで続きます。これは毎年3か月間、猛暑による自然災害になっていると考えた方がよい。そして温室効果ガス抑制に向かっていない。脱炭素をしても20年以上は気候変動、温暖化はもとにもどらない。

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これは、多くの人にとってはとても大きなストレスです。特にわたしのように3月という寒い時期にうまれた人間にとってはとてもつらい。そうなると温暖化はどうしようもないと覚悟を決めてして身体づくりをする。30度を超えても暑いと感じないような身体づくりをするしかないです。それには減量をする。そして汗をかきやすい身体にしておくことしか手がありません。

身体面、精神面で平常であったとしても東京に住む人にとってはもうひとつ物質面でのストレスがあります。それは金銭的に恵まれてお金に困らない生活をする、それはだれでも望むことでしょう。それには一生懸命働いて稼ぐか遺産をもらうしか方法がありません。

マインドフルネスをしても物質面の改善には結びつかないのです。というかよく念仏を聞くと物欲を捨てて物事の執着から解放せよ。必要以上にお金を稼ぐことをやめよう。欲を捨てることでそれができると念じているようです。

むしろ場合によってはあれだけ願い事をしたのにちっとも貯金が増えないではないかと間違った期待をいだいてしまう。物質面での豊かさを求めてマインドフルネスなどしないほうがいいでしょう。

身体的回復、心理面でのリラックス、そして物質面での豊かさ、それらにおいてマインドフルネスは効果はないようです。

次は、ストレスそのもの除去にマインドフルネスは役立つかです。

ストレス除去になるのか

マインドフルネスの状態に持っていく。フローの状態になるという。集中力がアップする。必要ないものを捨てるためだ。これは100%集中してもものごとを成し遂げるときに必要なもの。

ただし、病気やけがは治らない。ストレスからの回復はない。疲れはとれず、物質的改善も期待できない。

そんなことを書いてきました。これらは人の内側に起きています。では外側で起きていることには変化があるでしょうか。なにか悪さをする原因を除くことができるのか。これは明らかにできません。

わたしの身近な例をあげてみます。

わたしがよく新勝寺に通っていた頃のことです。住んでいる3階建てマンションで様々な事件が起きました。その事件のひとつとして、2階のバルコニーからタバコのポイ捨てがあった。それが1階の専有部にあたる芝生の上で見つかった。証拠を添えて1階の人から理事会にクレームがあったのです。

わたしは、理事会の副理事でした。そのころ、京都のアニメスタジオで火災事故が起きたころでもあり、まわりの6人の理事よりも深刻にとらえました。

ところが理事会では、加害者の特定がある程度できているにもかかわらず、クレーム処理をしませんでした。何か月か経った後に掲示板に注意書きをしたのみでした。次第に怪しい人物は専有部のベンチでもポイ捨てをはじめます。

理事会の言い分は、犯人が特定できないかぎりはクレームは出せないというものでした。わたしはそれに合点がいかず、そういうものなのか。では警察はどのように対処するのか。それで近隣の警察署にいって刑事2人と話をしました。

警察は事件が起きてからではないと動かないということでした。火災が起きてはじめて調査をはじめる。はじめた結果、なんらかの物的証拠があれば、告発できるということでした。また、ポイ捨ては証拠にはなるが、それをだれが捨てたかを立証するにはDNA鑑定が必要とのことでした。

火災事故が起きて被害届を提出する。不法投棄をしたポイ捨ての証拠を見つける。証拠をそろえてDNA鑑定をして犯人を特定。医者を雇うことになり、その費用は30万円するといいます。人が死ねば刑事告発。物損であれば民事告発。それぞれ違う弁護士を雇う。そして弁護士も明らかな証拠があり、立証できなければ損害賠償ができないということでした。

警察と弁護士の役割は理解でき、事件後の流れはよく理解できるものでした。では、このような行為を取り締まることはできないのか、と問うと、警察はパトロールとして全44世帯に対して実施はできるというのです。では、理事会を通して、管轄の部署である生活安全課にお願いできないか、と問うと、次に返ってきたのはこのような答えでした。

お気持ちはよくわかる。しかし、事件は発生していない。パトロールはできるがその優先順位は低い。なぜなら、この生活安全課では、このような相談が毎日20件はある、というのです。毎日20件? では、年間6,000件になるのでしょうか、と。刑事の答えは、そのとおりだ、ということでした。そんなに処理件数があるのか。

さらに続けて、まだこの市の管轄では事件が起きてから動くしかない。千葉市の警察本部の方では、もっと事件が発生している。知事の署名で毎週のように異常者が強制入院させられている。千葉県というのはそれほど危ないところ、かと。そのとおりと返答してきました。

あれから、1年ほどして同じ刑事と話をすると件数は減っていないとのことでした。

これはわたしの身近で起きているほんの一例です。自分自身では、コントロールはできない外の世界。その外で発生するストレスの原因は当然のことながら、マインドフルネスでは解消することはできない。

次回は、マインドフルネスとはどういうときに効果があるのかを述べます。

効果があるときとは

決まった時間内に集中してことを成す。どうしても勝負をしなければならないとき。普段は勝てるはずなのに、今はなにかその気がしない。ゲームで勝負は半々でどっちに転ぶのかわからない。そのようなときにマインドフルネスは効果があります。

例えば、チェス、将棋、囲碁で1対1の真剣勝負をするとき。ただ、これまでの勝敗からして結構勝つこともあれば、たまに負けることもある。でもなんらかの理由で今回は勝たなければいけない。ただ、なぜか勝てる気がしない。気がわさわさして、勝負に集中できない。考えすぎてしまう。まず、そのようなときでしょう。

あるいは、バスケットボールの試合をしていて逆転の3点シュートを打たなければならないとき。逆転の場面だけではないけど、とにかく逆転をしないとそのままトーナメントが終わってしまう。ここぞ、という一点に集中してシュートを放つ。これも集中が必要です。

長い時間をかけて集中がとぎれないようにするとき。脳外科医が手術をするとき。手術には患者の命がかかっている。時間はかかるが、いつまでも脳の中を開け続けているわけにはいかない。持っているものすべてを使って最善尽くす。うまくいくかどうかはわからないが、チャンスは一度。

これらは、フローの状態でないとなかなかいい結果が出ません。では、フローとはどういう状態なのか。

それはフローでない状態をあげることで少しだけはっきりしてきます。たとえば、通勤をしている時間。この時間はフローにはなりえませんね。都内に通う電車の中でどうやって集中すればいいんでしょうか。あるいは車を運転しているとき。やれることは音楽を聴くことくらいでしょう。つまり、集中はしておらず、むしろ、他のことに気がとられる時間です。

もう一つは、やりすぎて緊張、不快、拒絶をしてしまうとき。フローを超えてストレスの高いことをしてしまうとき。体力、精神力以上のことをしてしまう。いやなことを長く続けることで疲れ果ててしまう。なんのアイデアも出ず、作業も間違いが頻発します。わたしによくあったことです。

先ほどの例でいえば、将棋などの対局が異常に多い場合、バスケットボールで僅差の試合がいくつも続いたとき、そして長時間の難しい手術をいくつもこなしたときにもあてはまります。燃え尽きてしまう。

大学生の皆さんであれば、受験を経験しました。そのときの調子はどうでしたでしょうか。数学は、他の教科と違い、計算をしますので集中が必要です。間違いをしないようしたい。他の教科でもある程度の集中はいります。

そして期末試験を受けるとき。時間が決まっており、その中でテストを受けます。そこで小論文を書きます。ミスをしたくない局面があります。

大学を卒業して社会人になった皆さんは、面接を経験しました。1時間の対面で自分のすべてをさらけだしてアピールをしないと希望のところには採用されません。面接官の話を聞いててきぱきと答えることが要求されているとき。

また、社内外の人たちにプレゼンテーションをしなければならないとき。その時間は30分。普段の練習通りにいけばいいが、そのためには集中して、迷いなく、いいたいことを伝えたい。こういった局面です。

ある局面で、普段、練習ではうまくできるのに、どうもいろいろなことが気になってうまくいく気がしない。そんなときこそマインドフルネスは最適でしょう。

次回、最後のエピソードで祈祷そのものについて、そして、マインドフルネスの実践≠祈祷について書いて締めくくります。わたしは、マインドフルネスの効果だけでなく、実践についても誤解をしていたようです。

祈祷について

最後のエピソードでは、新勝寺の祈祷そのものについて話をします。この祈祷は、約30分間。何度体験してもいいものです。2018年の1月から、最初は月1回。そのうちに2週間に1度くらい体験しました。いく回数が増えるについて、次第に効果が長く続くようになっていきました。そこで当初にはわからなかったある変化が気づきました。

祈祷中は、視覚と聴覚だけを使います。座禅をしているだけで不動です。自分の位置はかわりません。祈祷中の場所はどこも薄暗いままです。祈祷が始まる前と終った後には、なにも空間には変化がないことに気づきます。動かずに、視覚ではなにも変わっていない。むしろ目を閉じている。

つまり、空間は、祈祷中30分間は並存状態です。

ところが30分間の時間的経過を聴覚でとらえます。聞こえてくるのは、お経を読むお坊さん、特大の和太鼓、これがかなりの大きさで音も真後ろから聞くと大きい。響きが空気を伝わってきます。そうしているとかすかな変化に気づきます。

お坊さんはお経を読むのですが、その前に少しだけ説教をします。欲を捨てましょうというのです。わたしはこの捨てるということに反応しました。なにか情報、知識、知恵を頭の中に詰め込みすぎているのではないか。取り組まなくてもいい問題をいたずらに大きくしているだけではないのか。それが苦しくしている。そういうものは捨てたほうがいいのではないか。

そうやって物事を追い払うようするとなにか楽になった気がします。不思議に冴えたような錯覚に陥ります。問題はなくならないものの、問題を考えこむよりは一瞬だけ楽になる。

そういった効果を聴覚を通して得る。そうすると集中力が少し増すのではないか。そう考えたものです。これは、空間の変化ではなく、時間的経過で効果があるようです。そしてその効果は一度体感をすると、何度も祈祷をしなくても持続効果があるようです。

さらにお経は何を言っているのかはよくわからないものの、お坊さんの音声、音帯、音質は不快ではありません。そして和太鼓の音も最初はびっくりはしますが、不快な音はないのです。

また、おりんの音がときどき聞こえる気がします。あの音は不快でしょうか。むしろ落ち着きをとりもどす。その反面、機械音、パソコンからかすかに聞こえてくる音や電気掃除機の音は、少しの間でもイライラすることがあります。

欧米では、教会の鐘です。あれは、よくできていて人々の気持ちをおちつかせるものに違いありません。何百年も聞いて救われてきた。

マインドフルネスは集中アップをはかる。それは聴覚からというのはまず間違いないところでしょう。新勝寺の周りを見渡しました。どんな人が来るんだろう。ほんとうにマインドフルネスなのだろうか。

だいたいいつ行っても成田山新勝寺で祈祷をする人の数は多い。あの部屋がいっぱいになってしまうのです。いっぱいになるほど人が集まり、この人たちは平日の昼間にほんとうに集中力を高めるために来ているのだろうかと考えたりしました。

平日の昼間でもあり、来ている人はどちらかというと年配の方が多かったです。年配のひとたちはもうそれほど集中力を高めるような局面はないであろう。ビジネスでも45歳を過ぎたのであれば、ほとんどここぞという局面は経験している。どちらかというとゆっくりと構え、定年に向けて準備をし始めます。お金への執着も消えていく。であれば、物事に集中をしたくてきているのではないでしょう。

真言宗の信者であり、親戚・友人ときた。あるいは宗教とはそれほど関係がなく、観光で成田山にきた。そういった人のほうが多いのでしょう。

そうなると祈祷というのは、必ずしもマインドフルネスの実践ではない。境内でなくてもどこか同じような環境で瞑想のようなことをすれば、同じような効果が出るのではないか。場合によっては家の近くでもできる。

最後にわたしがなぜ、途中からわかっているのにあの祈祷に魅力を感じたのかで締めくくりましょう。それは、お経の中にあった捨てるという教えだったのでしょう。捨てれば身軽になる。重たく引きずることはない。そうすれば時間は少しだけゆったりと流れる。そういった時間的感覚というものを欲していた。

集中をしていなくてもよい状況であっても、(いまの状況ですが)、いらずらに不必要な情報を頭の中に詰め込みすぎた。やがてそれが雑音・雑念になり、内で悪さをするようになった。人は、(特に自分は)視覚から文字をとおして情報をとりすぎている。いれたあとに意識してごみのような情報を捨てなければ、混乱をきたす。

物がありすぎれば、便利なるものの、それが混乱のもとにもなりましょう。最小限にして多少なりとも不便を感じるくらいのほうがよい。あれだけものがない幼少期から、いまは、なにも不自由しない、あらゆるものが身近にある。

勝負する時期はとっくに終わった。なのになぜあれほど時間がないとわさわさしてしまうのか。

日頃から気にしている時間管理というものでした。時間の管理の第一歩は何をしているのかを記録して、(記憶ではなく)、なにも成果を出さないことを捨てるとあります。容赦なく切り捨てないと時間を確保できない。ところが何を捨てたらいいのかが皆目見当がつかなかったのでしょう。

これでわたしがマインドフルネスについて抱いていた誤解がなんであったのかがわかっていただけたと存じます。

書き終えて

何を捨てたらいいかが見つかったら、捨ててみて身軽になること。あらゆる問題と戦わず、なにかに絞って、こんどこそ自分にご褒美。それです。ご褒美です。そのことを女房にいうと、あなたは、ここ最近、ご褒美だらけ。ほら、今日もこうやって夕方からビールを飲んでいる、と。

そりゃ、そうだ。もう若い時のように集中してなにかを成すというのはない。ただ、もう少しだけやり残したこともありそうだ。そのひとつにnoteの読者に向けて何か問題提起をしておくのもいいだろう。