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日系企業ではデータ経営は行われない

30年以上前にアメリカでMBAをとった。MBAとはMaster of Business Administrationといって訳せば経営学修士となる。経営学を大学院で学びその修了証書として修士号が授与されたのである。大学院であるから4年生の大学を卒業していなければならない。そして過酷な科目を24科目とって卒業をする。

いずれの科目も科学的なアプローチをとる。データを根拠にビジネス事象を分析する。思い込みや偏見を捨てる。そのために授業中に教授が解説をしてくれることだけでなく、クラスメートとも授業が終わった後に延々とグループワークをする。いつまでも議論をつづけある程度論点が出尽くしたところで発表をする。中間と最終の筆記試験を受ける。そうやって卒業できる。卒業したころにはかなり科学的な頭になって卒業をする。それがMBAというものだった。

卒業をして1993年。渋谷にある日本コカ・コーラに就職した。配属部門は情報システム部だった。ところがそこで行われている経営スタイルは雅楽的なアプローチはほとんどとられておらず、昔気質の第三言語を使うプログラマーに囲まれていた。ところどころ爆発をして噴火するひとたちが多かった。どちらかというと感情を爆発させるような人が多かった。しかも後から聞くとその部門は外資系にしては珍しく年功序列、しかも専制政治のような体制であり、他の部門からは特殊部隊といわれていた。

3月17日、ハーバード・ビジネス・レビューの読書会に参加した。そこではダイヤモンド社が発行する月刊誌を読む。特集を中心に関心のある記事を選び話をする。そんな読書会だった。そこでとりあげられた記事の中に私の関心のあるものが取り上げられていた。

タイトルは「生成AIの潜在力を最大限に引き出す法」という。著者はこの分野ではとても有名な学者であり、実際に企業内で行われているプロジェクトを事例に出して持論を展開している。わたしはこの記事を読みながら以下のような疑問を持っていた。

ひとつは記事を理解するための質問として以下のようなものを用意していた。

1.リスクを最小限にしながら、便益を最大限にする。この考え方は日本企業にあるのか。
2.最初に何をすべきか。仕事の大まかな棚卸。いまだにこの段階なのか。
3.医療現場で起こりうる悪用にはどんなものがあるのか。

また応用をするための設問も用意していた。

4.どの産業から普及していくのか。企業内のどの部門で普及していくか。
5.経験豊富な社員にはAIは不向きではないのか。

参加をしてきた読者が記事の感想を話していた。私の論点からは逸れていた。ただその内容にいささか驚かされたのである。日系企業というのはまだこの段階なのか。発言者は実際にデータを分析しているひとだった。そのひとがいうことを聞いて日系企業ではデータ経営というのは行われないのではないか。そんな印象を持った。

以下の3点だった。まずデータの使い方が誤解を招きかねない。次に経営スタイルがいまだに旧体質の感覚を重んじること。最後に生成AIを正しく理解していない。どういうことだろうか。

発言者のところではデータを使いグラフを作成するという。その数はおそらく膨大な数にのぼる。ところがそのグラフから何を読み取れるのか。なにをいいたいのか。それが誤解を生むというのだ。グラフがいわんとしていることを正しく解釈できない。そこから誤解が生まれるという。

わたしが聞いた限りではグラフの使い方がよくないのではないか。グラフというのはなにかしらの経営判断をするときに幹部が主張をする。その根拠となるデータをつかって表したものをいう。よく使われるのが時系列の変化、あるいは静的な構成、そしてあるものとあるものを比較したグラフである。時系列のグラフは10年とか20年とかを用いる。

構成をあらわすグラフにはパイチャートなどをもちいる。そこでは正しくデータがつくられていて分析手法も正しいものでなければならない。そうでなければ誤解を生むであろう。ひょっとしたら経営者がグラフを理解できないのではないか。

次に旧体質の意思決定をしているという。データを使って正しい分析結果を提示した。にもかかわらず経営陣が結果を信じてくれないという。それではやる意味がないではないか。どうして信じないのか。すると発言者はこういった。いまだに勘(かん)、経験、そして度胸で意思決定をしてしまうという。わたしはだまっていた。

だまっていたが、心の中ではこうつぶやいていた。いまだに日系企業というのはこの段階なのか。データ経営というのは程遠い。

そして最後に生成AIについての理解はほとんど進んでいないという。発言者によると生成AIは平気でウソを出力する。また作り話ですら回答する。いま世間をにぎわしている生成AIというのはやってみたらたまたまできてしまった。そんな代物にすぎないという。

この観測は正しい。まだ十分に検証されてはいないのが生成AIである。そんなものを不要に使えば間違いを犯すことになろう。例えばアルゴリズムというのたまたまできたものであり、中身を検証しているのだろうか。きわめて怪しいブラックボックスではないか。

わたしは発言者の意見をなるほどと聞いていた。そして10年くらい多額の費用をつぎこんだアメリカでさえ8割は失敗に終わるという発言者の指摘をしっかりと受け止めた。

30年の月日を経て少しはデータ経営に近づいたのではないか。そんな淡い期待は現実を知ったことで見事に覆された。というかそんなところであろうという着地点に落ち着いたともいえる。

一方で発言者に問いかけたのは、やはり経営者がアメリカの経営スタイルを持った人の方がいいのではないか。旧体質の日系企業であったり経営者が精神論で語るようなところにはデータ経営はなじまないであろう。そのように言葉を添えた。