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興奮、大穴、利腕

今から36年前。とにかく日本を飛び出して海外に行きたくてしょうがなかった。海外といってもわたしにとってはアメリカ合衆国しかいくところがなかった事情はある。アメリカから帰国してまだ3年も経っていない。そんな時期であった。

このまま会社の中で仕事をしていてはいけない。妙なあせりのようなものがあった。いまから考えると仕事はかなりよかったにもかかわらず。

勤めていた外資系証券会社は霞が関に堂々とオフィスを構えていた。そこでは200人近いスタッフがいてバブル経済にうかれていた。驚くような年収を稼いでいた人たちばかり。

わたしは40人いる調査部の中では下っ端であった。その肩書はリサーチ・アシスタントといって、上司のエコノミストにこき使われていたのである。

キャリア・アップのためにはなにが必要か。あの中にあって上司はとてもいい人だった。そんなときに上司にストレートに相談したのが以下の内容である。

わたし>エイドリアン・チョーグル。キャリア・アップをするにはどうしたらいいでしょうか。MBAをとりにいくのがいいでしょうか。

エイドリアン>MBAというのはステップ・アップする連中がいくところだ。

わたし>では、日本人であるわたしがアメリカ人と同じように授業を受けて卒業をするのはどうしたらいいでしょうか。英語はどうしたらいいでしょうか。

エイドリアン>イギリスの雑誌、エコノミストを読むことを勧める。よく書かれている。

これが上司の回答だった。上司はこの時、ある一冊の本を併読することを勧めた。その本のことはどこか別のところで紹介しよう。会話は続いてこのような締めくくりだった。

わたし>では、エイドリアンはどんな本を読んできたのですか。

驚くことに上司のエイドリアンとわたしはこんな気楽で平等な会話ができた。10歳年上のエイドリアンは答えた。

エイドリアン>好きな本はディック・フランシス。あの競馬シリーズが面白い。

このまま36年が経過した。ところがどういうわけか突然今年になってこの会話を思い出した。なぜかはわからない。ディック・フランシスの作品をいくつか読んでみた。一体、どんな本があるんだろう。

調べてみるとディック・フランシスというのはミステリー作家としては重鎮であり数々の賞を受賞している。37歳くらいから毎年1作品出版しており、その著作活動は衰えることはなかった。40冊近い作品を残している。

どれから読むのがいいだろう。代表作は何だろうか。日頃からミステリーはあまり読まない。どこから手を付けていいかわからなかった。

そこでアマゾンでディック・フランシスを検索した。作品を選んで書評欄を読んでみた。それによると大穴と利腕をセットで最初に読むこと。次に興奮を読むのがディック・フランシスのミステリーにすんなり入れるということが書いてあった。

そこで大穴と利腕を手に取ってみた。それぞれ350ページと400ページある。このボリュームは気が遠くなった。パラパラと読んでみたものの普段読んでいるものに比べてかなりスピードが落ちた。どうしたらいいか。そこで1冊で完結している興奮を手に取った。

まず大体のあらすじを読んで頭に入れる。そして読み始める。2度読んだ。1度目は普通のペースでストーリーを追った。2度目はゆっくりとしたペースで文章の細かい描写まで読んでみた。ふむ、これは面白い。

この文章ではディック・フランシスの代表作である興奮、大穴、利腕を読んでどういうところが面白かったのかを書きます。

あらすじ


興奮のあらすじはこうなります。文庫本の解説から引用しました。

イギリスの障害レースで人気のない無印の馬が突如異常な能力を発揮。その結果、大番狂わせを演じるケースが次々に起こる。ところがどんなに厳重に検査をしても興奮剤は検出されなかった。どの関係者にも怪しい点はない。しかし明らかに不正は行われている。何者の仕業なのか。

オーストラリアで牧場経営をしていた主人公は、競馬会の理事に口説かれ、厩務員に化けて、その黒い霧の真相を探る。

大穴のあらすじも書いておこう。障害レースで落馬をして左手が使えなくなった元チャンピオン騎手が、細君にも逃げられた。失意の日々を探偵社勤めで過ごす。そのうちに競馬場の乗っ取りを企む一味の存在を嗅ぎつける。彼らを追い詰めていくうちに再起のきっかけをつかむ。

利腕はその続編。

パターン


これらの代表作に共通していえるのは、屈辱・侮辱・苦痛からの10倍返しというパターンである。主人公が受ける屈辱というのは半端ではない。イギリスの階級社会をかなりシビアに描いている。主人公への嫌がらせというのは相当酷いことが書かれている。これは普通はがまんができない。しかし主人公はがまんにがまんを重ねていく。

下の階級に対する目下したやりとりだけではない。手が不自由になった不運に対しても相当侮辱するようなことが書かれている。最初は主人公はひどいことをいわれるのを苦にしていないようだ。しかし次第に荒っぽい表現になっていく。

実際に受ける肉体的苦痛についても書かれている。ちょっとえげつないような表現もある。読んでいるだけで身震いするようなところもある。

そしてついに仕返しをする場面がやってくる。この爽快感がすばらしい。

この主人公の弱音を吐かないところ。不屈の意志を貫くところに惹かれる。なんのかんといったところでこういった精神のようなものが素晴らしい。

描写力


次に2度目に読んだ時に気づいたこと。描写力である。これは具体的にどこがどうということは書けない。しかしながらところどころでの描写がうまいと気づく。訳者の実力もあることだろう。ただ、場面を想像するときにほんとうにイギリスの競馬場にいるような気がしてくる。

どこでストーリーが展開されているのかを注意しながら読んでみる。その場所の描写がとてもうまく書かれている。なんとなくその場にいる気がしてくる。不思議なものだ。

競馬場で見える光景。馬が芝生の上を通る。するとその芝生の匂いまでしてくる気がする。これはディック・フランシスの表現がうまいというほかないであろう。

ミステリーの要素


さらにおそらくここが一番であろう。ミステリーに必要な要素がすべて入っている。それは謎の状況設定と謎解きにいたる道筋だけではない。なにかスリルというか探る本能。追跡をする本能。なにかしらの刺激を求める本能に突き動かされる主人公。そのためお金や人間関係を度外視して真相を究明していくところ。

その捜索過程で相当な侮辱や屈辱を受ける。それにもめげず、さまざまなことを口で吐きながらも犯人を追い詰めていく。これは普通それほど書けない。かなりの結晶度である。

これだけ文章を書いたところで36年前の上司との会話を思い出す。そして3冊読んでみてこう上司に返答してみたくなった。

あのときはどんな作家なのか、どんな作品なのか、全く気にも留めていませんでした。しかし、はっきりとあなたがいってくれたディック・フランシスのことは覚えています。そして代表作を読みました。

なんてすばらしいミステリー作品なんでしょう。英語では読まなかったのですが、日本語で読んでも素晴らしい。英語でもかなり評判の高い作品であることも知りました。

時間はかかりましたけど、あなたが勧めてくれたイギリスの雑誌エコノミストは10年読書会を通して読みました。いまでも記事を読んでいます。それぞれの記事が内容面はともかく、文章構成がストーリー構成になっていてよく書かれています。あの時は難しくで2週間で読むのをやめてしまいました。しかしようやくわかりました。

そしてディック・フランシスの作品。ミステリーの要素がことごとくちりばめられていて描写がすばらしい。あの時はどんな作家が知らなくて読みませんでした。しかし不思議と急に思い出して読みました。

エコノミストと合わせて読むととてもいいです。あなたの言った意味が36年が経過してはじめてわかりました。