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学士号を費用対効果で評価しない

40年前に私立大学を卒業した。学費は4年間親に払ってもらった。額は年間30万円。いわゆる授業料という費用項目だった。私立大学なので年間にそのくらいかかるというのは納得していた。国立大学はそれよりさらに安くて6万円くらいだったと記憶している。あれから40年の月日が経ち大学の授業料が大幅に上がった。

私立では1年間100万円を超えるところが多い。国立でも50万円以上という。授業料に加えて受験費用、入学金、設備費、通学定期が加わる。すると私立では年間120万、国立では60万円くらいになるであろう。4年間通学して卒業後に都内に就職をする。そして働いてみてわかる。給料明細を覗くと疑問がわくかもしれない。はたして大学を卒業して学士号を取得したけどそれだけの価値があったのかどうか。

あるオンラインイベントで学士号が価値があるかどうかというテーマで話をした。10人程度集まったメンバーに限れば概ね価値があるという人が多かった。わたしもどちらかというと授業料は高いが大学にいって学士号をとる価値はあると考えている。ところがこの議論をするときに前提を疑う必要がある。

まず大学はビジネスをするところではない。次に大学では学ぶこととつながりをつくることが成果になる。お金を儲けることが成果ではない。経常利益も株価もないし、株主が得るキャピタルゲインも配当もない。学士号というのは就職をするときだけに威力を発揮するのであってその後に仕事をするのは本人次第だということ。それぞれどういうことだろうか。

ひとつめは大学はビジネス、つまり営利会社として運営するようにはできていない。そのため費用対効果や学位に金銭的価値があるかという前提では動いていない。ビジネスで事業をするときに財務的評価指標を用いる。通常はほとんどの事業が何かに費やすコストを次の基準で評価する。収益率、回収期間、キャッシュフロー、そして現在価値。これらは何かに投資をするときに必ず用いられる指標である。ビジネスではプラスでなければならない。

ところが大学という機関においては学生が授業料をこれだけかけたのだからひとりあたりの価値をこれだけあげるようにする。卒業後に受けとる給料が高くなければいけない。そういうロジックでは運営されてはいない。もちろん授業担当者は学生に単位を授与する。単位には評価がついてくる。

しかしたとえ優(A)であってもそれが10万円の価値があるというふうに考えて成績をつけていない。授業を受けて学生が技(スキル)を授かってさらに磨くわけであるけれどそれに対して金銭的価値はなんら明示することができないのが大学である。

次に大学に来る目的というのは概ね二つである。それは学ぶこととネットワーキング。そのためにいろいろな科目が準備されている。自由に選びで役に立つ科目を優先的にとること。例えば文学や哲学のようなものよりもより実践的なものを学ぶ。コンピューター言語や金融といったものの方が役に立つことは明らかである。それでも学んでいい成績をとったからといって金銭的価値が加わるわけではない。仕事をしはじめてから金銭的価値がわかる。

金銭的価値が加わるのは就職先を選びそこで仕事をして得られる給与である。つまり会社が職員に支払うものがお金であって大学というところは学生にお金は払わない。金銭的報酬はない。

また学生であるうちにやっておくべきは学ぶ過程で友達をたくさんつくることである。そのために大学がある。朝から晩まで構内施設が使える。サークルやクラブ活動がある。特にスポーツをすることで仲間というのがはるかにつくりやすくなる。いまの大学は施設としてとても恵まれており完備されている。なにかをしたければSNSで募集をして集める。何をするかというテーマだしから始めてもよい。大学内でできることからはじめる。オープンにしない。失敗をしてもなにも失うものはない。大学にある資源(ヒト、モノ、カネ)を使い倒すくらいであれば元はとれるであろう。

こういった学習とネットワーキング(仲間づくり)を費用対効果を使ってビジネスのように評価することは無理である。

そして学士号をどこどこの大学からもらった。それにいくらの価値があるかという議論がある。これもどちらかというと金銭的価値をつけるのは難しい。確かに学士号をとればいい就職先にいけるだろう。それは採用する側がこの大学から採用しておけばはずれが少ない。そのくらいのポテンシャル(潜在的価値)で採用している。どこどこの大学を卒業したかどうかというのは3~5年後には消滅している。

5年後つまり28歳にもなればだいたい自分がどんな仕事に向いているかというのはわかる。たとえ27歳くらいまで大学院に残り就職を先延ばしにしたとしてもどのような仕事につくかは想像できる。できなければいけない。大学に行った意味がない。そういう状況で学費と稼ぎの費用対効果がどのくらいあるのかということは突き詰めることはできないであろう。

しかし一方で学費が高すぎるというのはもっともな嘆きである。授業を124単位(90分x2単位x60科目)とったところでどのくらいの価値になるか。ためになるのかという議論はある。124単位というのは1350時間を費やす。4年間で400万円以上使う。これをどうやっていくら回収するかという疑問は残るであろう。

さらに東京では事情が悪い。2歳から22歳まで大学を卒業するまでに親が負担する教育費というのがとても高くつく。あるファイナンシャルプランナーによるとオール公立で月3万円かかるという。毎月3万円を20年間払い続ける。そうすると770万円になる。これは負担が一番少ない例としてある。

私立の場合は教育費の負担が3倍になる。月9万円で20年間で2,200万円という。そうなるとこれだけの費用を回収できるのか。そのためには年収をいくらもらわなければならないのかというのはもっともな議論であろう。ざっと計算すれば10年はかかるのではないか。32歳にならないと回収できない。そういう計算はできる。計算はできるが普通は返済できない。なので不満がたまる。

だがわたしはこの学士号がどのくらいの費用対効果があるのかという議論はどこかがおかしいと考えている。というのははじめにもどるけれども大学はビジネスをしているわけでなく営利組織ではない。職業訓練をしているわけではない。訓練をしたければ専門学校にいけばいいのではないか。どんなに文句を言っても大学ではできない。まして特定の分野を専門とする学術研究者はビジネスを得意としていない。

大学を卒業をした多くの人が30歳くらいになった。そのひとたちが給料に対して文句をいう理由は当てにしてほど高くない額ということだ。あれだけいい大学にいったのに大した給料がもらえない。これだけがんばっているのにいつまで経っても上がらない。苦しい。こんなはずじゃない。そう考える。

これはいささか唐突なことに聞こえるかもしれない。しかしいまのビジネスはどんな企業に就職しようとも相当にがんばらないとやっていけない。それはあらゆる業態においていまの経済が創造と変革を前提としているからだ。その前提がインターネットで提供されているテクノロジーである。

インターネットを使いこなせないとまず創造はできない。生産性を格段にあげていかないと早いビジネスサイクルに追いついていけない。そういったことは大学では授業としてとりあげることもやることもできない。大学にはスピード感がない。それに学生自らが気づいて仕掛けていくしかない。できれば周りをまきこんで。ひとりでやることには限界がある。

わたしは親に4年間で120万円(30万x4)支払ってもらった。そこでは有志による勉強会ができておりそこに入っていった。アメリカのビジネススクールでは私費で2年間授業料は120万円(60万x2)だった。いまからすれば破格であった。それでもビジネスのそれぞれの分野でいくつも研究会ができていた。わたしは妻と小さな子供と週末いっしょにいたかったのでそこまではやらなかった。でもやるひとはいた。

いまのビジネススクールだと2年間で2千万くらいの学費がかかるという。とても高くていけそうもない。そこで断念する人が多い。もっともな理由だろう。ある程度はどのくらいの価値があるかは考えてもよい。しかし提供している大学側が財務的価値を指標として運営していない。そこを踏まえればあまり突き詰めてもしかたがない。たとえいくらかかろうとどう活かすかどうかは自分次第であろう。