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二度のキャリアチェンジは危険、三度は無謀

35年間という勤務生活を通して学んだことのひとつはキャリアチェンジについて。いうまでもなく転職のことをいう。転職はだれが経験してもおかしくはない時代になった。転職の経験が何回あるのかということはそれほど問題ではない。ただ、回数よりもどのような転職をしてきたかという中身は問題にはなる。私自身の転職経験から文章を書いてみよう。

一言でいうと同じ業種、職種で転職をするのであれば問題ではない。業種、職種の両方を変えるような無謀な転職(キャリアチェンジ)はしないほうがいい。そのような転職は2度やると危険。3度目は命取りになる。そういった内容です。

わたしは、1回目のアメリカ留学から帰国して外資系の金融機関に就職をした。特にこれといってやりたかったことがあるわけでなかった。国際機関に働きたかったが縁がなかった。国際機関に就職をする試験会場が東京にあり、当時は東京に住んでいなかったため、飯田橋のユースホステルに宿をとった。そこでたまたま夜に集会があり、外資系企業に就職をするという道があることを知った。

話をしてくれたひとは、東京には外資系企業を専門に紹介をする人材銀行があってそこに登録をするとよいという。運が良ければ、案件を紹介してくれるというものだった。いくつかある紹介会社の中でわたしはケンブリッジ・リサーチに登録をした。紹介してくれたのがスイスの投資銀行だった。そこに応募してなんとか職を得ることができた。

当時はバブル経済の真っ只中。だれもが浮かれていた。1987年の10月、ブラックマンデーによってバブルははじけた。はじけると会社の中はとてつもなく砕け散っていった。わたしはとにかくあの株式、債券の取引をディーリング・ルームで扱うトレーダーのしでかす行為ががまんならなかった。

コーヒーのはいった紙コップをオフィスで投げ捨てたり、輪ゴムを使って人に目掛けて放ったりしていた。加えてふしだらなことを男女問わず、平気で吐くようなことがあった。いまであればハラスメントとして扱われよう。ただ、当時はそんなこともとがめられず、利益をあげる中枢部であるトレーディング・ルームではなにをしてもよかった。

わたしはすっかり金融のことが嫌になり、業種・職種を変えることにした。アメリカのビジネススクールで2年間学びなおしたのはそのためである。金融のことを忘れ、情報技術(IT)のスキルを身に着けるためだった。30代にして金融からITへ。それは危険な選択だった。財務分析をしていたひとがコンピュータの用語がわかるのか。そこから再スタートだった。

帰国して外資系の飲料メーカーの情報システム部(IT部門)で働き始めた。ところが30代で一からやりなおすというのはよほどのことがないかぎりやめたほうがよい。20代でコンピュータ・サイエンスを専攻し、10年実務をやってきたひとたちにかなうわけがない。案の定、ITの仕事の落とし穴にはまってしまった。

当時、ESSBASEというオンラインレポートのソフトウェアを展開するという仕事を任されたときのこと。わたしは、指示を受けて仕事をしはじめた。社外のコンサルタントの助けを借りながら、全社展開をするという準備をしていた。仕事は外から見れば簡単なことをするだけだった。ホストコンピューターに格納されているデータをESSBASEのDBに移行するということ。外から見ればなにも難しいことをしていない。だれもができそうな仕事に見えた。

ただ、わたしはコンピューターの知識はあったが、実務経験がなかった。実務においてどのような困難が待ち受けているのかがわからなかった。それは勤務先をやめて10年くらいしてから、ESSBASEの実装で同じような痛い目にあったひとに聞いた話であった。このシステムはよくデータが落ちるということ。つまり、データの移行がうまくいなかいことがあるということだった。システム自体にも問題があった。

その問題を回避するには、地道に元データをチェックして、データのクレンジングをしないとうまくアップロードできないということだった。

30歳まで財務分析をしてきたひとがデータの扱いができるわけではない。ビジネススクールでは、データの仕組みについては勉強をするものの、実務でシステムが稼働するような実践はしない。わたしはとても疲弊してしまい、サプライチェーンマネジメントのコンサルティング会社に就職せざるを得なかった。

その後も一貫した転職をしてきたわけではない。金融からITという危険なかけはうまくはいかなかった。仕事をもらえたのは運がよかっただけである。それから17年にわたって、ユーザー(6年)、コンサルティング(5年)、そしてシステム・インテグレーター(6年)と渡り歩いた。激動だった。しばらく仕事ができない期間もあった。ITで2度目の転職をした。

そうこうしているとうまく身体がついていかなくなり、よく眠れない日々が続き、50歳を迎えた。それまでは運よく過ごしてきたものの、リーマンショックの影響はどの会社にもあり、仕事をしていたシステム・インテグレーターである日本ユニシスにも暗い影を落とし始めた。

わたしは企業勤務をやめて大学の講師になろうと決めた。それは3度目のキャリアチェンジ。無謀な試みだった。大学の教員というのは博士号を取得したひとがなるところであってMBA取得者がなるところではない。MBAというのは、企業で実務をするひと。そこに向けてビジネスの専門家になるための養成であり研究者ではない。

そうすると待遇はそれほどよくない。教育ということでなんとかなるかという思いもあったが、大学生のマナーの悪さとモチベーションの低さに閉口することが重なってしまった。そのような学生にどう対応するかということはなにも会得していなかった。5年くらいして、なんとか問題なく過ごすには学生に対して期待を下げる、問題を起こさず、業務委託契約どおり、つまり教務課とうまくやっていくだけで時間を過ごすことにした。それで学生から文句が出ることもなかった。

ところがそうこうしているうちにあっけにとられるような事件が起き、教育そのものに対しても疑問をいだくようになってしまった。自身が受けてきた教育はとても厳しい教えによるものであった。チャラけたことを投稿するSNSなどはなかった。大学というところでふざけたり、私語をしたり、遅刻してくるというのはありえなかった。企業勤務でも三菱系というのは、遅刻は許されないという環境だった。

三度のキャリアチェンジは命取りになりうる。どんなことがあっても同じ業種・職種で転職をしなければならないだろう。状況によってはいたしかたないだろう。ただ、業種・職種を変えるようなキャリアチェンジは、やったとしても1度。2度は危険であろう。3度ということになるともはや取り返しがつかない。

それでもなんとか35年間という長い間仕事ができた。なぜかできたかと言われれば単に運がよかったというだけだ。だれもがいい運が続くとは限らない。わたしは、決して器用というわけでもなかった。そのため職場で苦しむことも多かった。業種・職種を変える転職はよほどのことがないかぎり無謀であって、やめておこう。

ただし、例外としては親が裕福であって莫大な遺産を受け継ぐのであれば、好き勝手なことをしてもいいだろう。また、若いときに稼ぐだけ稼いで自由人として路頭に迷わないだけの資産があるのなら無謀なことも可能だろう。東京には少なからずいることはいる。そうであってもうまくいかないって。

キャリアチェンジを考えている人の参考になりますように。