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ガザ地区での和平交渉は多難

1984年の秋にミシガン大学に留学していた。そのときのわたしは日本で知り合ったミシガン大学生のピーターと知り合いであった。ピーターの両親はスペインの小島出身でアメリカに渡ってきた。親切な彼は友人を紹介してくれた。紹介してくれた友人は9人で皆ユダヤ人だった。わたしはユダヤ人についてはあまり知らなかった。イスラエルの歴史も知らなかった。

それが彼らとお付き合いをする上で少々困ったことになった。マイク、チヤック、デビッドとおなじみの名前があがる。少しばかり顔見知りになるとこんなことを聞いてくる。卒業後は何をするんだい。わたしはもごもごと答えた。

国際機関で働きたい。できれば国連を希望している。そうとだけ答えた。すると彼らの顔つきがすぐに変わった。そしてそれからどうやらわたしを見下すというか、バカにするような態度になっていった。国際機関で働くことの何がいけなんだ。立派な仕事ではないか。彼らの眼中にはなかった。

ほとんどが大都市出身だった。シカゴ、ニューヨーク、マイアミばかりだった。そして卒業後には何になるのかとわたしは質問した。ほとんどが医者か弁護士になるという答えだった。しかし大学院にいかねばならないだろう。大学4年間で十分ではないのか。

そんな考えは通用しなかった。彼らにとって大学とは大学院にいくためだけの予備の4年間だった。本格的な訓練はロースクールかメディカルスクールにいって訓練をするというところだ。教養を身に着けるという考えはなかった。なるべく苦労をしない化学をとって医学部に進学をする。そんな現実的な考えを持っていた。

イスラエルガザ地区での停戦は起こりそうもない。ある読書会でガザ地区での混乱について話す機会があった。エコノミストの記事の中に少し書かれている。それによるとイスラエル側は終わることのない駐留を続ける。また政治的に右派に傾き、とりわけ外交がうまくいかないため孤立傾向にあるという。

去年10月のハマスによる攻撃で多くの犠牲者が出た。あれから2万人がなくなっているという。さて、どうしたらいいか。

これはいかに歴史を紐解いたところでどうしようもないのかもしれない。また人質が和平交渉の材料となるとちょっとおかしい。近隣諸国もこれといった打開策をもっているわけではないだろう。アメリカを敵対視するイランの存在もある。こういった膠着状態はいつまでも続くであろう。

国連による非難と人道支援をいかにしようと解決策は見えてこない。お互いが75年以上もいがみあうかぎりは感情的なものであり、嫌悪の中では交渉はほとんどできないであろう。

これは日韓関係においてもいえる。もう、そろそろお互いに非難をするのはやめようではないかといっても嫌悪は消えることはない。おまえたちがやったのではないか。勝手に韓国に来て強制労働をさせた。戦中には兵士が慰安婦に対して性的虐待をしたではないか。その感情は切れるものではない。

日本人であってそんなことは関わっていない。親戚にもそんなことに関わった人はいない。経験として持ち合わせていない。こんなことをいっても相手は応じてくれないだろう。ではどうしたらいいか。

わたしはミシガン大学で会ったユダヤ人の友人たちのことを考えた。彼らには暗い歴史がある。ナチスによって多くのユダヤ人が迫害をうけた。無実の人たちがホロコーストで殺された。

そのドイツに連合し、いっしょになってアメリカと戦争をした日本。やがて終戦間際にはユダヤ人の科学者によってつくられた原子爆弾。それにより広島で20万人、長崎で8万人のひとが被ばくして苦しんだ。

こういった暗い過去を綴ることは冷静にしておくべきだった。しかしこうともいれる。もういがみ合うのはやめようではないか。お互いに戦争をしたわけではない。

感情は誰にでもある。憎しみ、非寛容、疑惑、頑迷、そして恐怖。ただし、これだけはいえるのではないか。これらの感情をいつまでも長い間ひきづっていればやがてそれらは毒になるというだけだ。

和平交渉は多難であろう。いつまでもかかる。しかしこれまで人が示してきた和平への願いと行動を振り返るとなんらかの可能性はある。それを断念しなくてもいいではないか。