反日、反韓を克服するのは簡単ではない
わたしが10歳くらいの時だった。生まれ育った愛知県豊田市。豊田市といっても最北端に位置する故郷は人口たったの4百人。当時のベビーブームの勢いに乗って子供が多かった。父は仕事で忙しくほとんど家にいない。仕事もプライベートも一切口にしない父親だった。その父親が何かをいっている。それは数少ない伝え話だった。
普段から何も教えてくれない父親がめずらしく口を開いた。おお、韓国人には気をつけなさい。あの人たちは日本人を許すことはない。えっ、何のことだろうか。わたしは数少ない父親の教えをうのみにしてしまった。それはわたしの頭の中に不運にも刻み込まれた。消えることはない。
韓国の人。異国に住む人なのか。自分たちとは違う異質なものを持つ。その人たちがわたしたち日本人を一切許すことはない。許さないという要素がもうひとつだった。この悪い相関は頭の中でしっかりと結びついた。
わたしは中学・高校と韓国の人に会ったことはなかった。わたしが初めて韓国人に会ったのは23歳で日本ではなくアメリカだった。
ある読書会で最近反日、反韓感情が和らいでいるという記事が取り上げられた。戦中に日本人が韓国人の人たちにむごいことをした。強制労働と慰安婦はとんでもない犯罪である。日本側はそれを政府間で解決しようとした。韓国政府に対して直接投資をすることで韓国の経済発展を後押しすることに決めた。
ところが日本から投資に向けられたお金が韓国内で行方がわからない。犠牲者に対して支払われていない。どういうことだろうか。どうも政府高官が着服したのではないか。あるいは産業界の人たちのポケットに入ったままで一向に還元されていない。
戦争が終わったのが1945年。実に80年近く経過しているにもかかわらずお互いにまだいがみ合いが続いているともいう。もうそろそろ忘れた方がいいのではないか。
最近の調査によると日本人と韓国人がお互いに対する好き・嫌いの反応は好転している。韓国でさえ、あれほど嫌っていた日本のことを肯定的に見る人たちが増えているという。それでもまだ50%、半分以上が反日感情を持ち続ける。
上のグラフは日本人と韓国人がそれぞれにどのような印象をいだいているかという調査である。左のグラフは日本。右のグラフは韓国。どうなっているだろうか。
ここ10年間の意識調査である。日本では好感というのは20%しかないという時期があった。それがここ3年くらいで40%くらいまで伸びた。それにより嫌感を上回り逆転現象が起きている。
嫌感は一時60%近いこともあったが、ようやく50%を下回り40%を切った。つまり10人中6人はそれほど韓国のことを嫌いではないということだ。日本では好感度が増してきている。
一方、韓国ではどうだろうか。日本人のことを評価しているのは1割程度しかいないという時期があった。最近ではコロナになって10人にひとりしか日本をよく評価していない。それが30%近くまで伸びている。
ただし日本人のことが嫌いという人たちは相変わらず多い。ただ、これまで8割であったのが5割程度まで減っている。韓国の人たちの中でも日本のことを嫌っていないという人たちが増えてきた。好きではないけれど前ほど嫌いではないということだ。
これは両国間においてとてもいい現象であると理解している。ただ80年でこの程度しか進んでいないというのが残念だ。
そこで読書会ではわたしのエピソードを話した。わたしは父親の間違った指摘を真に受けた。この偏見を頭の中から消し去るのに半世紀、50年かかった。しかもこのプロセスは楽ではない。むしろ苦しい。一度、頭の中で偏見を持つと捨てるのは難しい。その偏見を都合のいいように肯定していき、やがて頭の中でステレオタイプができてしまう。
父の指摘がどうもおかしいと思ったのはアメリカに留学しているときだった。クラスメートであった韓国人の学生はわたしと同じくらいの年齢だった。その学生はわたしが日本人であることを知っている。であれば敵としてそのような仕打ちや反日行為をしていいはずだった。
ところがそんな言動は一度もなかった。あのとき、わたしは日本と韓国が味方・敵という考えを捨てた。
そしてその10年後のことだった。もう一度、アメリカに留学したときだった。わたしは30歳を過ぎていた。そこで教えてくれたひとりは韓国籍の教授だった。もちろん、わたしのことを日本から来た日本人の留学生であることは知っている。
しかし、授業では教えてくれた。敵であれば教えるはずもないではないか。アメリカ人の手前いやいや教えたということでもあるまい。韓国の人が日本人に教えるという光景はこれまで見たこともなかった。
そして帰国してから渋谷にある日本コカ・コーラで仕事をした。そこではわたしの仕事の同僚は韓国からきた人だった。お互いに仕事をした。ここはどうなっているんだ。よくわからない。どうやればいいんだ。
そしてわたしは彼がとても韓国人の奥さんのことを愛していることを知った。しかも2人の子供の善き父親だった。休日になると家族でマクドナルドのハッピー・セットを食べて過ごすという。そんなことを話してくれるひとだった。嫌いな日本人にそういうことを話すだろうか。ありえない。
あの時、わたしの偏見はほとんど捨てられたといってよい。反日感情を持つ韓国人が渋谷で働くわけがないのである。しかも日本人であるわたしに家族のことをあれこれとは話さない。
ゆっくりと確実に偏見は消されていった。しかしこの作業は苦しい。新聞やテレビでは相変わらず韓国での事件や事故について報道されていた。ああ、やっぱりそうなのかと目にすることがあると振り出しにもどる。それでもなにより生身の人間に接したことがよかった。
そして50年の時が経てこういうこともあった。読書会をはじめたのは朝鮮出身の人だった。その人にあったときはわたしの中にはどの国籍であるかどうかは全く問題ではなかった。それどころか数少ない尊敬する人としてリストの中に入っている。読書会を通して、いや、むしろ読書会の外で彼のやっていることでとても勇気づけられ元気をとりもどすことすらあった。コロナの時もそうだった。
50年前の父の伝言をうのみにしたのはよくなかった。わたしは10歳くらいだった。しかもその後10年以上韓国の人に会っていない。
ただ父を責めることはしない。彼はそう思ったのだから。ただ、こういうべきだった。人がいったことをうのみにしてはいけない。自分の手と足を動かして何度も問うことだ。そして問い直しをしてその考えが正しいのか間違っているのか。それを問い、どういう意見を持つかは自分次第であろう。
わたしはこの楽しくない、不必要な工程を若い人にはだどってほしくはない。同じ思いや苦しい作業を頭の中でやる必要はない。
偏見は捨てるのが難しい。意識的に捨てなければ嫌い、嫌いで終わるであろう。インターネットや本ではないのだ。それらはあくまで合図にしかすぎない。