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大日月地神示考察-6【「え」の巻】
2006年6月8日 天の日月の神
この巻きで、考えさせられる一文がある。
悪の神々様、改心お見事であったぞ。善の神々様、改心なかなかでありたが、それはすべてこの方の仕組みておったこと。
悪の神々様が改心する。という意味は何となく分かりやすい。
しかし、
善の神々様の改心なかなかでありた(つまり難儀だった?)ということは、どういうことか。善と思うことを改心しなければならなかったのか。
「我、善し」と思っている人は、その時点で「慢心」だとよく言われることがそれなのだろうか。
一見「悪い」と思われることは、誰が見ても分かりやすい。
しかし「善い」と思っていることを正すことが出来るのは、自分だけではないだろうか。つまり、自分との闘いなのかもしれない。誰かに良い評価をしてもらうためなどというような、見返りもない。
自分自身を自分自身で見つめなければできないことなのかもしれない。
そこに、善悪という知識を超越した、自分の魂を輝かせるコツがあるのかもしれない。などと想像してみる。
何一つ人民の物というもの、この世には無いのであるぞ。
宇宙も、地球も、人の身体も、あらゆる食物も、自然も、神様が作ったものであって、人の所有物ではない。人の知恵すら神様から流れてくる。という事を示されている。
だからこそ、自分が正しい、自分が善だ、と思うことがおこがましいという事なのかもしれない。
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