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胡適,蔡元培と五四運動 (周海波2005)

 周海波《胡適 新派傳統的北大教授》中國長安出版社2005年,pp.63-69 以下で周海波は、胡適の学生運動一般に対する見解は、五四運動からちょうど1年後の1920年に蔣夢麟と共著で発表した文章に現われているとしている(写真は湯島聖堂)。果たしてそうかどうか。示されている学生運動に対する批判は、憂国の学生の心情は議論せずに、学生は学窓にとどまらねば授業を受ける権利を放棄することで損をしているだけだと説く。胡適の議論はかなり薄情にみえるがこの周海波の理解でいいのかどうか。他方で五四運動の前後、胡適がデューイの接遇で上海におり、多忙であったことは客観的な事実で、記憶しておいてよいことかもしれない。とりあえずは、周海波の記述を訳して置く。

p.63   この年(1919年 訳者挿入)の夏、米国の哲学者デューイ(John Dewey 1859-1952  訳者挿入)博士は、北京大学、南京高等師範学校、そして江蘇省教育界の招きで中国を訪問し講義をすることになり、胡適(フウ・シイ 1891-1962   訳者挿入)は北京大学を代表して、
p.64    北京から上海まの旅程に付き合い(專程)蔣夢麟などと接遇(迎接)していた。五月三日、デユーイは上海での学術講演を開始し、胡適は通訳にあたっていた。
 デューイが上海で講演していたとき、北京の”五四”運動もまさに盛り上がろうとしていた(也方興未艾)。
    ”五四”運動勃発のその日、胡適はまったく知ることがなかった。その数日、胡適は上海でのデューイに付き添って活動、忙しさに終わりが見えなかった(跑前跑後,忙得不可開交)ので、北京で起きていることすべてを顧みる余裕は全くなかった。五月五日になって、彼はようやく北京で起きた学生事件を知った。
 その日の朝早く、蔣夢麟の家で寝ていた胡適は起床してすぐに、門をたたく音を聞いた。蔣夢麟が開けると、入ってきたのは上海の『時事新報』の記者だった。彼らとの会話の中で、胡適は北京で起きたこと(事情)を知った。この情報を聞いて、彼は賛成とも反対とも感想を述べていない。彼は曖昧に述べている。当時
p.65  彼はデューイの事だけに関心があり、学生運動の類を考える暇がなかった。
   五月八日、胡適は予定より早く上海を離れ、十二日に北京に戻った。彼が北京に戻った時、蔡元培はすでに九日に辞職して北京を離れ南下していた。蔡元培辞職の原因は少し複雑だが、主要な理由は学生運動にあった。もともとパリ会議の内容は蔡元培が学生に伝えたものだった。しかしその後の事態の発展は蔡元培の予測をはるかに超えるものだったし、もちろんどの面から議論するにせよ、蔡元培は学生が授業を放棄してデモに行くことは同意できなかった。学生が政治闘争に直接介入することには反対ですらあった。彼はかつて学校の出口で学生のまえに立ちふさがって(擋擋學生)言った。どのような問題であれ、彼が君たちを代表して(代表同學們)政府に対し要求を提出すると。しかしその北洋政府は強硬な命令(訓令)を出した。「各学校に命令を通知する、学生を厳重に管理する責任を負うこと、これに違反するものは直ちに解職する、放縦はゆるされない(不得姑息)」。蔡元培は政府と学生の間にあって、この複雑な局面に対応できなかった。そこで彼は「学生は何度でも繰り返す決心をし、政府はまた全く引き下がらない態度」の情況のもと、沈痛な思いで大総統と教育総長に辞表を提出し、故郷に隠遁した。
 このことはもともと明るい性格の(本來心情不錯的)胡適に捉えどころのない苦悩を与えた(憑空添了一些煩惱)。準備してきたデューイの北京での講演活動は中止せざるをえなくなり、蔡(元培の辞職)を悼む活動に巻き込まれるに至った。蔡元培が辞職して南下したあと、北洋政府は胡仁源を代理北大校長に派遣。校内は蔡(元培の辞職)を悼むかあるいは蔡を追い出すかをめぐり、学生と政府の間には巨大な軋轢(摩擦)が生まれた。胡適は一方の学生側に立ち、蔡元培が委託した工科学長温宗禹が主宰する校務委員会を支持し、軍閥により買収された学生が作り上げた「蔡元培を拒んで胡仁源を迎える」言動に対して暴露批判反駁を加えた。もともと学生運動に良い印象をもってなかった胡適は、この矛盾を通じて、学生運動に対する意見を深めることになった。
 (中略)
p.66  胡適はデューイの接遇の仕事で忙しく、デューイの中国での各種活動に没頭していた(醉心)。しかし彼は意識的にか無意識的に学生運動に対して関心を示している。彼は学生運動に同情的だが、北京の学生運動は当然ではないという態度(不以爲然的態度)を表現した。もともとは寛容で慎重な胡適は、”五四”運動に対しすぐに評論を発表していない。我々は彼が発表した《他也配》《北京大學與青島》《數目作怪》などの数は多くない短い雑感の中に、およそ胡適の意見を見ることはできない。それゆえ我々は胡適の”五四”(運動)に対する態度を直接見ることは不可能だが、しかし彼の”五四”運動周年に際して蔣夢麟と一緒に書いた《学生の希望と我々(我們對于學生的希望)》と題した一文の中に、彼の学生運動に対する一般的態度を見出すことができる。この文章は1920年5月4日《晨報副刊》上に発表されたもので、比較的全面的に”五四”学生運動の発生を分析し、かつ学生の未来希望に対して言及(表達)している。胡適は”五四”運動発生の歴史は、彼が見るところ、「漢末の太學生、宋代の太學生、明末の結社、戊戌政変以前の公車上書、辛亥革命以前の留学生革命党、ロシアのかつての革命党、ドイツ革命前の学生運動、インドそして朝鮮の現在の独立運動」と同じく、その発生の理由(道理)がある。かつ”五四運動”一年来の学生運動に触れて、胡適は、学生運動は当然(自然)多くの「良い効果」があり、(それは)「学生運動の重要貢献と考えられる」という。しかし胡適は全体としては婉曲に学生運動を否定する。胡適は学生運動を簡単に否定しているのではなく、学生が政治に無関心でないことに反対していない。(しかし)こう考える。社会がもし一種の水準以上の透明さ(清明)を保持できるなら、すべての政治上のアピールや措置、制度上の評判と革新、これらはすべて大人(成人の人)が扱うべきことだと。未成年の人たち(学生時代の男女)は、安心して学を求める権利をもつべきで、社会もまた彼らに学校生活以外の活動をさせる必要はない(也用不着)。そこで胡適は指摘する。”五四”そして”六三”このような学生運動、「授業放棄を武器とするようなものは、もっとも不経済な方法であり、愚劣極まりない方法(下下策)だ。何度もやって止めないのは(屢用不已)学生運動の破産の表れだ。授業放棄は敵人には何の損失でもなく、自分自身にとって大損失である。これは皆わかっていることだ。しかし我々が見るところ、授業放棄を武器とするのは、さらに精神上の一大損失だ。」彼は一面で過去生じた学生運動を「青年の
p.68   活動力の一種の表現だ。これは良い現象の一種で、押さえることはできないし、押さえきることもできない」とする。同時にまた学生の授業放棄は「群衆の悪い心理」「学習から逃げる悪い習慣」「無意識的な悪習慣行為」に至ると批判した。彼は、学生の演説中の「同胞よ早く目覚めよ、国が滅びそうだ」「売国奴を殺せ」「愛国は人生の義務」といったたぐいの話に不満であり、また主張した、「学生は今後、教室,自習室、体操場などを重視すべきで、授業後の余暇に学生活動をすべきだ。この種の学生活動こそ持続的で有効な学生運動である」。ここで胡適は学生に「学問生活」「団体生活」「社会サービス生活」の三方面を指摘し、学生運動の活動方向を改変したいとした。 

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