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Oskar Ryszard Lange 1904-1965

 ランゲは1930年代アメリカのミシガン大学にいた時、ロンドン大学にいたハイエクとの間で、社会主義の実行可能性(feasibility of socialism)について論争を交わした。ランゲは市場の機能をよく理解していたので、市場の機能を否定することには、懐疑的だったのではないか。計画経済の行き過ぎを批判する彼の文章はそのことを示唆している。
   確かに市場を復活させないでは難しいが、ソ連でもまた中国でも利潤の機能をめぐる議論が起きた。より効率的に社会主義を進めるには、利潤の機能を復活させることが、必要だという議論がソ連でも中国でも起きた。
 そしてソ連では共産党が解体されて、急進的な市場化が進められ財閥が生まれた。そしてプーチンの独裁政権が生まれた。中国では共産党が温存され、漸次的に市場化が進められた。しかしそれは、共産党の独裁のもと、習近平の独裁政権に至る道だった。
 ソ連と中国に共通する誤りは、国民に言論・思想・出版の自由などを権利として保障が不十分であること。政権に反対する政党の存在を認める議会政治を実現していないこと、政権が透明な選挙を通じてされる選挙により選ばれた議会を重視した政権運営をしていないこと、さらに議会が足らない点を批判し、社会経済問題を自由に報道する組織の活動が認められていないことである。
 
ランゲ By David R. Henderson
Cited from Econlib.com
著者は海軍大学院名誉教授、スタンフォード大学フーバー研究所のリサーチフェロー。

 ポーランドの経済学者オスカー・ランゲは、社会主義経済学への貢献で最もよく知られている。社会主義の実行可能性(feasibility)についての彼の見解はその人生を通して前進し後退した。1934年にKrakow大学で彼は共著者のMarek Breitとともに、政府がすべての工場を所有し、そして各産業は公的トラスト(public trust)と呼ばれる独占が組織されているものとして、社会主義を概括した。(そこで)労働者たちは、各産業の経営に大きな発言権を持つだろう。
 ランゲは1935年にヨーロッパを離れ、ミシガン大学で教えることになった。1936年と1937年に彼はFriderich Hayekと、社会主義の実行可能性について論争を行った。そこで彼は、市場社会主義を、政府が主要な産業を所有し、中央計画委員会(CPB)がこれらの産業の価格を決めるものと、紹介した。CPBは、不足しないように価格を引き上げ、余らないように価格を引き下げる。(すなわち需給が)均衡するように価格を変更するであろうと。Hayekはランゲが示すように、政府が競争を真似て価格を決めるのは、本当の競争が存在することより劣っているように見えると指摘した。
 1943年にランゲはシカゴ大学に移った。同年彼はポーランド政府に、基軸産業を社会主義化し、しかし、農園、店舗そして多くのそのほかの中小産業を私(有)の手中に残すことを提案した。(また)大きな私的セクターは、私的自発性だけが到達できる柔軟性、可塑性、そして適応性を保全するために、不可欠であると。
 1945年にポーランドに新たに成立した共産主義政権は、ランゲを合衆国大使に任命した。1946年に彼は国連におけるポーランド代表になった。1949年にスターリン主義正統(の教義)がポーランドに押し付けられ、ランゲはポーランドに呼び戻されて、低い学術職を与えられた。1953年、ポーランドがなおスターリン主義の抑圧下にあったとき、ランゲは自身の(学問的立場)を逆転させて、スターリンの全体主義的経済統制を賞賛する論文を書いた。
 1955年に、政治的抑圧が少し緩んだあと、ランゲはワルソー(ワルシャワ)大学の教授、そしてポーランド国家計画会議議長になった。


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