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股票(グウピアオ) 中国経済用語

馬長林 股票の出現と外商股票交易機構 1860-1909 馬長林『中国古代金融』中国国際廣播出版社2011年pp.58-61(写真は東京大学総合図書館 2019年12月23日)

p.58  一 股票の出現と外国商人股票交易機構(意訳:株券の登場と外国商人株券取引組織)
 股票(株券)は有価証券の一種であり、近代資本主義発展の産物である。股票は企業資本の表現形態の一つであり、また社会個人の財を成し富に至る手段の一つであり、専門金融機構の最初のそしてその次の交易を通して、社会資金の不断の蓄積と分流を形成し、そこから金融市場全体と社会経済に対して、作用と影響を生み出している。中国のもっとも早期の股票は、近代西欧金融機構と新式企業が中国で開始されたときに生み出された。
 19世紀中葉、西欧の一部の資本主義国家において、株式制(股份制)の形式で資金を集めて、企業を始めることが人々に好まれる(青睞)ようになった。この新たな企業設立メカニズムは、以前の兄弟、親類ないしは家族が出資する方式をあらためた。出資人の権益は明確で、リスクと利益は共存しており、いかなる感情上の葛藤(糾葛:正すべきこと)もなく、資金が不足するときは必要な資金を社会で容易に集めることができる。間もなく、西欧で流行にこの種の株式制企業設立方法は何人かのすばしっこい(精明的)外国商人により中国の通称口岸に連れてこられた。
 19世紀60年代の上海では、外灘一帯にはすでに外商洋行(外国商人が設立した貿易会社)が多数設立されていたが、当時そのビジネスは順調とはいいがたかった。もともと1860年から太平軍が南京を占領したあと、揚子江の中下流域で商品運輸に従事する伝統的中国帆船はほとんど途絶え、上海から揚子江を通って内地に向かう貿易は完全に停頓し、欧米市場からはるかに運送されてきた紡績品は上海の倉庫の中に大量に積み上げられ、外国商会は内地で生糸や茶など地元の産物を買いたいのだが、話しを始めることもできず、多くの輸出入業務を行う外国商会が倒産に直面していた。しかしほとんど航p.59   行を禁じられた揚子江の航路に一つ例外があった。それは外国の旗を掲げた船は、吳淞口からまっすぐ漢口にゆくことができたということである。各外国商会は、米国から購入した新式スクリュー船を利用して、上海と漢口の間を往復し、利益は莫大だった。この時一人の金能亨と呼ばれる米国商人が、揚子江航運の潜在利潤をみて、西欧型の株式制の方法を採用することを決心し、資本を集めて汽船会社を開始した。1862年3月、金能亨はほかの何人かの外国商人、中国人の買辦の関係を利用して、100万両の銀を集めることに成功したのが、近代上海の(同様に近代中国の)最初の株式制企業、旗昌輪船公司の開業であった。公司の資本は1000の株に別れ、一株は銀1000両であった。公司の章程によれば、株権は譲渡でき、公司のすべての方針重要計画は、年次の株主総会で決定される。ほどなく、旗昌輪船公司の株券が市場に現れた。このときいわゆる市場は、実際上はただ、株券市場の萌芽状態といえるだけのものであり、指で数えられる程度の株券が値段をつけられて売り出されていた。1864年の鉛印で(印刷された)『上海株券通報』の記載によれば、当時市場には銀行一行、保険会社八社、旗昌輪船公司を含む汽船会社三社の株券があった。しかしたちまち新興の株券はその独特の魅力をあらわにした。旗昌輪船公司はその経営により、利潤は一直線に上昇し、公司の役員会(董事會)は株式資本(股本)に対し50%の配当支払いを決定し、同時にまた株の額面価値を1株銀100両に引き下げた(同時將股票折細為每股面值一百兩銀子:株数が1万になったという意味でよいだろうか?)。この年の9月、公司はまた株式資本に12%の現金配当の支払いを決定すると、株券価格の急騰を引き起こした。1870年に119両だった市価は、次の年の1月には122両に達し、2月初めには128両、2月中旬には134両になった。この公司の株券は市場が多くの商品を引き寄せたことで、一部の外国商会の経営者(大班)が買い、一部の利に聡い(精明的)商人、官僚は皆争って購入した。
 株券取引が盛んになるにしたがって、株券売買に専門に従事する者が当然p.60   のように生じた。1869年、上海の四川路二洋涇橋北堍(橋の北のたもと)に、はじめて株券売買を専門に売買する商店(商号)ー英商長利公司が出現した。このあと、英商柯希奈(クシナ)・スミス公司,囌利文(スリウェン)・勃咨(ボーツ)公司、クライティン・アンデルセン(格來亭・安得生)公司が相次いで開業した。これらの商号は名前を商号に使っているが、実際上それが株券の仲介を妨げることはない。彼らは往々一人二人の人員で、場合によって主人が店員(夥計)を兼ねていた。当時売買手数料は統一されておらず、しばしば売買の都度決められた(臨時約定)。
    19世紀8-90年代、上海の外国商人株式制企業は日ごとに増加した。上海水道会社(上海自來水公司)などの企業は業務の発展により、会社本部がロンドンなどから上海に移転し、売買される株券の種類は多く(市面上股票品種多)、投資家の売買熱も一層高まった。1881年の英商上海水道会社の第一回株主大会報告によれば、株式を手に入れる者(入股者)には既定の株券払い込み額をはるかに超える金額が要求された。当時の新聞報道もまた、上海の株式ブーム(風氣)は全開(大開)で、新しい会社が起こされるたびに、大勢の人が争ってこれを買い、株を得たものは幸運だと伝えている。このような情勢のもと、1891年に西商株券仲介者(掮客)連合は同業組合(公会)、上海股份公所を組織した。この公所は規則(章程)を制定し、会員は入会費として25元、年会費10元を納め、(集めたお金を)関連する文書の印刷や取引所の建物の借り賃に充てるとした。1896年から1897年の間において、上海市場には20余りの外国商人企業の株券が存在し、多くは額面価値を上回っていた。上海蘭開烟草公司の如きは1年中四五十両のプレミアム(升值)があり、上海水道会社や鴻源紗廠などは利益がとても厚いので株券のプレミアムの程度も大きく、株券の売買もまた旺盛だった。1898年に上海股份公所は規則を再改定して、会員の年会費を30元、入会費を300元に引き上げ、公所事務を行う専門職書記を特設した。
   1900年に上海股份公所は英商総会内に複数の部屋を作業場(所址)としてp.61  借りた。このことにより上海股份公所は交易所内の固定された場所を有することになり、これまでの英商総会ビル内あるいは滙豐銀行の階段上で立って取引をする日々は終わった。2年後、英商総会の部屋の光が大変暗く、夏には蚊がまた多いことから、そこで株式取引をすることは愉快なことではなかったので、公所は再びアダムソンバイエル(社?)に再び移動した。このとき公所は株券取引で徴収する仲介手数料(佣金)を取引額の百分の1に統一規定し、株券の売り主が支払うものとした。
 1903年に上海股份公所のメムバー(成員)から公所を上海証券交易所に改組する提案があり、メムバーの多くの同意を得て、翌年香港の『株式(股份)有限公司条例』により香港で登録し、名称をThe Shanghai Stock Exchange、中国語名を上海衆業公所と定めた。このとき公所の会員は50人、入会費は昔からの会員は一人100両、新会員は財産が1000両以上の2人の保証のほか、公所の書記所に現金5000両あるいは価値5000両の有価証券を預けねばならないとされた。1909年に上海衆業公所は外灘一号に入居したが、規模は昔日とは比較にならない。取り扱う(経営する)証券の種類は中国から極東各地の外国商人企業株券と債券、南洋各地のゴム(橡皮)株券、中国政府の金幣公債、上海租界当局が発行する債券など。外国商人企業の株券とゴム株券が取引の主要部分を占め、その取引(経営)規模は極東地区で一二を争うに至った。

新中国建国以前中国金融史

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