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胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛
 胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。
 1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であったためこうした学生運動の高揚を招いたという批判が胡耀邦を辞職に追い込んだ)。この会合で胡耀邦自身が(集団指導体制の原則に違反し、重大な政治原則上の誤り(失誤)があったと)自己批判したことを受ける形で、1月16日の中央政治局拡大会議は、胡耀邦の総書記辞職を認め、趙紫陽を代理総書記に選任した。このあと、胡耀邦は政治的な力を失い(形式的には常務委員、政治局委員にとどまったが、それは待遇の格付けを意味するだけのもので、実権はなかった。「胡耀邦(1915-1989)」は辞任後、秘書に整理させた過去10年の記録を3ケ月かけて読んでいたと伝えている(「胡耀邦(1915-1989)」北京聯合出版公司2015年pp.957-958)。87年11月の十三回党大会で胡耀邦は中央政治局委員の一人となり、政治に復帰しているがその後急速に体調が悪化させ入院治療を繰り返すようになった)、89年4月政治局会議に出席中に心臓発作で倒れその1週間後、89年4月15日に逝去している(前掲「胡耀邦(1915-1989)」pp.984-986)。その逝去は1989年の六四事件の引き金になった。
 この1987年1月の民主生活会で趙紫陽が、胡耀邦を批判をしたとの指摘がある(滿妹など)。しかし胡耀邦が、党の政治改革を進めたことが胡耀邦への批判の背景にあり、その政治改革の遅れが、結果として六四事件後の趙紫陽の失権につながったようにも見え、二人を押し流した力は同じもののようにも見える。だとすれば趙紫陽と胡耀邦の二人が互いに助け合うこと、あるいは胡耀邦ー趙紫陽が組んだ政治体制は、なぜ終焉を迎えたのか?胡耀邦と趙紫陽。この二人が助け合って、中国の民主化を進める形になぜならず、胡耀邦の失権に趙紫陽が加担することがなぜ起きたのか。
 経済政策に関する問題と、政治に関する問題と、問題は大きく二つに分かれるが、いずれにおいても胡耀邦に比べ趙紫陽が、進め方においても政治的な配慮でも慎重であった。これは趙紫陽の方が、政治家としてのキャリアが長いことが影響しているのではないか(以下の記述は趙紫陽《國家的囚徒》時報出版2009年第23章。張博樹《趙紫陽道路》晨鍾書局2011年中の蔡文彬あるいは鮑彤が書くところによる、pp.110-116, 365-385)。
 経済に関して趙紫陽は、改革にあたって、いたずらに高い数値を掲げたりすることに慎重であった。これは右派あるいは計画派とされる人たちと重なる考え方であった。胡耀邦は、この点で高い目標数値を掲げたり、大衆運動方式が好きだった。また趙紫陽は、自らが担当する経済面での改革に、胡耀邦が口出しすることを明らかに嫌った。これに対して胡耀邦は総書記として、経済改革にも発言しようとした。(1983年3月に鄧小平は、今後、経済工作は趙紫陽に任せるとした。1984年10月に十二届三中全会で「経済体制恢改革の決定に関して」という文書が通過して以降は、両者の間で経済工作について争いはもはやなかったともされる)。
 自分の領域を守ろうとする趙紫陽の不満はわかるとして、趙紫陽の民主生活会での態度が、胡耀邦を一方的に非難するものだったとすれば残念である(鮑彤は趙紫陽が実際に言ったことは、胡耀邦は人を驚かすことを、ほかの人にあまりに相談せずに発言するのは、大問題だといった程度だと弁護している。前掲張博樹《趙紫陽道路》晨鍾書局2011年中の鮑彤 esp.p.377。これに対して胡耀邦の娘の満妹は鄧力群の《十二個春秋》に書かれていることだする、趙紫陽の発言を引用している。満妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年p.764 それによると趙紫陽は1987年1月15日、胡耀邦の知識人に対する甘さを責め、規律を守らないことを攻めまくったのである。実際、生活会でなにがあったのか。現在これを正確に確かめるすべはない。)。
 胡耀邦は周知にように、文化大革命で失脚した多くの老幹部の名誉回復に奮闘した。この民主生活会では、それらの老幹部が一緒になって胡耀邦を批判した。これは、失脚した相手を批判することで、自分の身を守る行動だともされるが、胡耀邦が失意のどん底に陥ったことも推測できる。趙紫陽もそうした行動に乗ったのだろうか?
 ただし趙紫陽は胡耀邦の失脚を、あくまで胡耀邦と鄧小平の間の対立の結果だとしている(趙紫陽《國家的囚徒》時報出版2009年第23章)。趙紫陽に見えていたのは、胡耀邦と鄧小平の分岐であった。鄧小平が思想戦線で反精神汚染を掲げたのに(1984年から1985年)、胡耀邦がこの汚染反対運動に懐疑的だったと(ところが満妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年pp.772-780を読むと、この汚染反対運動は胡喬木と鄧力群の二人が1983年に仕掛けたもので、鄧小平が仕掛けたものではないことになっている。胡耀邦は、この運動は文革の運動に似ているとして批判しているほか、鄧小平も自分と同じ考え方だと述べている。その後、1986年8月、北戴河の会議、決議草案の議論で、鄧力群が「資産階級自由化は資本主義の道を歩むもの」というフレーズの挿入を主張したのに、陸定一が、資産階級自由化という言い方は問題があると指摘。しかし最終的な決議草案には胡耀邦が判断してこの言葉を残した。と経緯を続けている。-これを見るとやはり胡耀邦は、鄧小平との間に距離感がたしかにあり、鄧小平と腹を割った話ができておらず、鄧小平の真意を誤解していたのではないかと思えなくはない。)。趙紫陽によれば、北朝鮮の金日成、日本の中曽根首相、香港のジャーナリストなどへの対応、つまり対外的な対応で慎重さに欠ける対応が胡耀邦により繰り返されたことでも、鄧小平と胡耀邦の関係は次第に悪化。ついに1986年9月の十二期六中全会での精神文明の建設に関する決議をめぐる決議で、胡耀邦の反自由化についての態度の曖昧さが、鄧小平の怒りを招いた。そしてその怒りから鄧小平は、1986年12月の学生デモの高まりの責任を胡耀邦に求めるようになったと、趙紫陽は述べている。その結果、十三回党大会開催を待たず、胡耀邦の総書記辞任に至ったのだと。
 他方で政治に関する趙紫陽自身に考え方は、彼自身がのべているところでは、その後少しずつ変わった(趙紫陽《國家的囚徒》時報出版2009年第37章)。最初は経済改革を進めるなかで生じるさまざまな問題の解決には政治改革が必要だという判断。それが次第に、法治が必要であるとか、ほかの民主党派の政治参加も必要であるいった内容を伴ったものに変わった。その最終的な姿は胡耀邦が考えた、中国の民主化の姿と似ていたのではないか。それだけに、胡耀邦の失権に趙紫陽自身が加担したのは残念に思える。
 政治面についての趙紫陽の主張は、胡耀邦がこの面で慎重さに欠けたということであろう。趙紫陽が生き残り、胡耀邦が先に失脚したのは、趙紫陽が地方の政治に長く、政治的な人間関係に鍛えられていたのに対し、胡耀邦は子供のときから軍の中で育った軍部育ちで、年齢が上の老幹部にかわいがられて育ち、政治の経験が浅いことが影響したように思える。趙紫陽にはその意味でしたたかさを、胡耀邦には人を疑わない人の良さを感じる。

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