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王筑民「学習生活:1957年秋」2012/10出版

 著者は貴州出身。1957年に高考を受験し、第一志望の北京大学哲学系から合格通知が来た。貴州全体では4人が北京大学に合格したとのこと。ただ残念なことに翌年、病のため1958年2月に北京大学を離れている。その後、貴州大学中文系に進み、中国古代文学の研究者となった人である。ただ短期間で退学に至った経緯から以下の思い出の時期は1957年秋と特定できる。以下はその人の「心を弾ませたがしかし残念な回憶(激动而遗憾的回忆)」という文章の一部から。『青春歳月在北大』社会科学文献出版社2012年10月pp.185-186. 大躍進運動が始まる直前、緊張感のある学生生活の一面が記録されている。

p.185    北京大学では、学習生活はとても緊張していた。秋冬のころ、空がまだ明るくないときに起床した(訳注 別の個所で宿舎は6人部屋だったとある)。顔と口を洗い終わったら、すぐに大食堂で朝食を食べた、食べながら教室に向かって走った。少しでも前列の座席を争うためである。幸い、当時私の目はなお明らかな近視ではなかった、それゆえかなり後列でなければ、なお見ることはでき、聞くこともできた。また科目ごとに教室は違ったので、授業と授業の間は「早く走る」しかなかった。
 学習について話すことにすると我々の先生のことを思い出す。第一学期に開講されたのは、黄丹森先生(訳注 丹は左に木篇があるが活字がないので丹としておく)の唯物主義と歴史唯物主義、李世繁先生の論理形式、数学課では中年の男性教師、小グループに分けた補導課があり、習題課は若い女性教師だった。先に述べた幾つかの科目はすべて、授業は階段教室だった。幾つかは一クラス200人の大講義だった。ロシア語は小グループ授業であり、私たちのクラスの先生は粛という姓だった。その動作や表情はとてもロシア風だった。体育課は身体の状態能力(体質)によりクラス分けされ、私は強くない(较弱)グループだった。
 先生方の講義はとても魅力的で、私は興味を持って精神を集中して聞き入った。
p.186   講義のあとは、図書館に行き関連する書籍を読む必要があり、常にある種、深く考えたいとの思いがあった。
 北京大学の図書館は、各閲覧室ともに、いつも満席だった。或る時、午前の一限二限ともに授業がなかったので、私は図書館に行った。図書館の入り口についたとき、空はまだ明るくなかったが、そこにいる人は多く、沢山の人が立っていた。門が開くと、一斉に中に進んだ。席を確保して、一息ついてから、座った。館内はとても静かで、誰もが静かに本を読んで書いている。スタンドの光線はとても良く、机の左右の高い板が左右の人を隔てて互いに見えず互いを妨げない。本を借りるには借書処に行き、カードボックスで借りたい本のことを調べて、専用の紙片に書いて管理員に渡す。管理員が紙片を籠の中に入れると、建物の上の書庫の管理員が籠を引き上げて、本を探しあてて、ふたたび籠で下ろす。当時北京大学図書館の蔵書はすでに180万冊に達しており、全国で二番目だった(北大団委会学生会が新同窓生に配った手紙による)。
 図書館のほか、文科閲覧室、理科閲覧室があった。(これらの)閲覧室にも書架があり、各種の参考書が置かれて、学生は随時閲覧できた。夜の自習時間には、閲覧室はやはり同様に空席はなかった。

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