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Sun Yat-sen 孫文 孫中山 1866-1925

By Jim Simkin Sept.1997 updated Jan.2020
cited from spartacus educational com

 孫文(孫中山 英語ではSun Yat-sen)は農民の息子として1866年に生まれた。彼は香港で医学を学び1892年の卒業後、マカオ、広州、ホノルルで働いた。彼は政治に関心をもつようになり、興中会(the Revive China Society)を設立した。
 1895年に彼は広州で不成功だったabortive最初の蜂起uprisingに参加した。国を追われて、日本、合衆国、そしてイギリスに住んだ。ロンドンで彼は拉致されてkidnapped清国公使館Chinese legationに閉じこめられた。処刑の危機に直面してイギリス外務省は介入し、彼は釈放された。
 清王朝は1911年の中国革命により遂に崩壊した。彼は短期間大統領となり、宋教仁とともに国民党を創立した。1913年に党が袁世凱将軍により弾圧されるsuppressedと、彼は日本に逃れた。
 彼は広州に戻り、ソビエト連盟からの助言者たちの支援で、国民党は中国で勢力を増加させた。1924年に国民党は三民主義(民衆の三つの主義 the  three principles of the people 民族主義nationalism、民主主義democracy、社会改革social reform)を採用した。彼はまた蒋介石を校長とする黃埔軍官学校Whampoa Military Academy(黃埔軍校)を創立した。彼は1925年に癌のため北京で亡くなった。

Su Kaiming, Modern China (1985)から引用
 1923年2月, Sun Yat-senは広州に戻ると、すぐに新たな革命政府の本部を立ち上げた。彼を支援するために、ソヴィエト・ロシアはMichael Borodin(1884-1954)と何人かの軍事顧問を送り、多数の共産主義者を含む、国民党の暫定委員会が組織された。
 中国共産党はその第三次全国会議を広州で1923年6月に開催し、国民党と革命的に連合した前衛を形成する問題を討議した。会議はSun Yat-senの中国革命に対する貢献を肯定しaffirmed、国民党を再組織することについて、また両党間の協調を確立することについて、彼を支援することを決議した。
 Sun Yat-senと西欧との食い違いは拡大した。彼が12月に広州の港の関税収入を差し押さえるseizedと脅すと、列強は海軍力を誇示して、現状の維持を求めた。苛立ったSunは怒りながら述べた。「我々はもはや列強に期待しない、我々はロシアに向かう」と。
 1924年1月、Sun Yat-senは再組織された国民党の第一次全国会議を広州で招集した。共産党の中の出席者には李大釗,毛沢東,瞿秋白(1899-1935)がいる。会議は、共産主義者たちが進めてきた、反帝国主義反封建主義の政策を採用し、個々の共産主義者そして社会主義青年同盟の会員を国民党に吸収することに同意し、国民党を、労働者、貧農peasants、小資産家petty bourgeoisie、民族資産家の革命的同盟に再組織することを決定した。このようにして、新たな血が国民党の諸階層に注入され、Sun Yat-senは再活性化した革命運動の指導者になった。


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