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ロシア革命 メンシェビキ 1903-1921

メンシェビキ by John Simkin
Cited from spartacus-educational com

 1903年のロンドンにおける社会民主労働党SDLP第二回大会において、二人のSDLPの指導者レーニンVladimir LeninとマルトフJulius Martovの間で論争があった。Leninは、党に属さない同調者や支援者の大きな付属集団をもつものの職業革命家の小さな党を求めた。これに活動家の大きな党が良いと信ずるMartovは賛成しなかった。
 Julius Martovはその考え方を、イギリス労働党のように、ほかのヨローッパ諸国に(すでに)存在していた社会主義政党によって基礎付けていた。Leninはツアー(ロシア皇帝)の独裁政治のもとで社会主義政党が非合法なロシアでは情況が異なると論じた。論争の最後の投票は28対23でMartovが制した。Vladimir Leninはこの結果を喜んで受け入れることはできず、ボリシェビキBolsheviksとして知られる分派を作った。(他方)Martovに忠誠を続けた人はメンシェビキMensheviksとして知られるようになった。
 SDLPの機関誌IskraはMensheviksの支配下に残ったので、Vladimir LeninはAnatoli Lunacharsky, Alexander Bogdanov, Gregory Zinovievの支援のもと、Bolsheviksの新聞Vperrodを創刊した。Mensheviksは1905年の革命では指導的役割を果たし、sovietsと成長する労働組合において活動的だった。
 1911年BolsheviksはSDLPの支配権を、1912年1月プラハの会議で奪う計画を立てた。(しかし)この試みは成功せず、党は分裂し、その後はMensheviksとBolsheviksは完全に分かれた。(なお)ほとんどのMensheviksは第一次大戦へのロシアの参戦を非難したが、ニコライ二世とその政府を支持するものもわずかだが存在した。
 (中略)
 レーニンは1917年4月3日ロシアに戻り、4月テーゼと知られるものを発表した。レーニンは暫定政府を支持したボリシェビキを攻撃した。彼は言った、革命家はむしろロシアの人々に国のコントロールを奪うことを話すべきであると。レーニンはその演説で、農民には豊かな地主から土地を奪うことを、工場労働者には工場を占拠することを、迫った。何人かのメンシェビキ、例えばLeon Trotsky, Alexander Kollontaiはこの見解に同調して(メンシェビキを離れ)ボリシェビキに加わった。
 メンシェビキの指導者Julius Martovの希望に反して、二人のメンシェビキIraki TsereteliとFedor Danは1917年5月の暫定政府に加わった。政府の内務大臣になったTsereteliは、1917年7月、Lenin, Leon Trotskyその他の革命家に逮捕命令を出した。
 メンシェビキは1917年の出来事を通じてロシアの人々の間で劇的に支持を失った。1917年の憲制会議選挙で、メンシェビキは170万票を獲得した。ボリシェビキは900万票、社会革命党は1650万票だった。
 Julius Martovとメンシェビキは10月革命反対では団結していた。(しかし)彼らのほとんどはロシア内戦では白軍ではなく赤軍を支持した。(また)自由な新聞、貴族、憲政民主党、社会革命党への弾圧への非難を続けた。クロンシュタットの蜂起(訳注 1921年2月末)のあと、メンシェビキはほかの反対党派とともに(活動を)禁止された。


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