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陳子明《顧准、李慎之の趙紫陽の思想への影響》 2011

 陳子明《顾准,李慎之對趙紫陽的思想影響》在《趙紫陽的道路》晨鍾書局2011年,pp.203-215 (この文章は表題から、顧准と趙紫陽(チャオ・ツーヤン 1917-2005)との関係が語られているのではないかと注目した。まず語られている認識は、私がもともと趙紫陽を読んで感じていたことと変わらない。ポイントは、顧准を読んでから趙紫陽の認識には大きな変化があるということ。私自身も感じていたことだが、それを再確認でき、中国人で私と同年代の陳と共感できることはうれしく感じた。さらに李慎之そして杜潤生と趙紫陽との関係や違いを議論している記述には、私が見落としていた論点があり大変啓発された。)(写真は文京シビックセンター)

 p.205 しかし趙紫陽が顧准(グー・ジュン   1915-1974)の思想に触れて以後、彼の思想には変化が生じた。1994年3月2日の杜導生日記は書いている。「午後、趙紫陽に香港で購入した『顧准筆記』、『理想主義から現実主義へ』、目下私が引き込まれているものを読んで上げた。」。4月14日、杜導生は再び趙紫陽宅を訪問している。この訪問で彼は間違いなく1992年に香港で刊行された1992年版の『理想主義から経験主義』を趙紫陽に渡したに違いない。1994年9月、『顧准文集』が貴州人民出版社により出版され、国内公開発行となった。宗鳳鳴は趙紫陽のために1冊購入している。彼は『趙紫陽軟禁中的談話』1995年11月4日の一節で書いている。「人々が賞賛する『顧准文集』この本を、私はかつて趙紫陽に贈った。今日、趙紫陽はまず私にいった。ー顧准は大思想家である。当今の理論界はまだ顧准の思想水準を超えていないと認識していると。彼は言う。あの個人迷信(崇拝)の時代に、あの極端に困難な条件下で逆境にあって、顧准がこのように問題を詰めて(研鑽して)、問題を提出したことは簡単なことではない。彼は顧准にこころから敬服の(欽佩的)心情を吐露し、あわせて私にこの本をよく読むようにいった。」趙紫陽は私に言った。「みるところ、無産階級独裁の学説を放棄しない限り、民主政治は実現しがたい。」この前に趙紫陽はすでに顧准の著作を読んでいる。1995年7月8日の『談話』で趙紫陽は、経済学者の顧准は、ヒットラーのファシズムは批判を受けなかったので滅亡したと、かつて語ったが、自分はソ連の瓦解も同様じことだと考えていると、述べている。1995年9月10日の『談話』の中で、趙紫陽は、述べている。「国家社会の発展の歴史を総観して、一つの主義、一つの党の政体モデルの中で専制独裁の道に向かうものは、直接民主を実行するこの政体モデルである。いわゆる人民を主人とするというのは無政府に向かうということであり、最終的には独裁専制政治を導く(ものである)」この観点はまさに顧准がとくに強調したことだ。

 p.208以下 (顧准の次に語られるのが趙紫陽と李慎之(リ・シェンツー  1923-2003)との関係だ。李と趙紫陽とは直接の交流はなかったが、しかし確かに趙紫陽はその影響は受けたと陳は言っている。その日付けをみると、顧准から影響を受けてから5年後、書物などを通して李に感服したことが伺える。宗鳳鳴との『談話』の1999年9月26日、趙紫陽は、李が『中国文化伝統于現代化』において中国文化の伝統の本質(真諦)は、専制主義であり、儒法(儒教の教え?)と専制主義の中核理論が相補っていると指摘しているとして、宗にちょっと読むようにと勧めている。他方で宗は李の『風雨蒼黃50年』を読み終わったところであり、趙に対して李の直言は、中国知識分子の良心(良知)と答えたとしている。
 杜導生日記にも関連する記述がある。2000年5月11日には、自由主義派を代表する人物として、趙紫陽は李慎之を挙げている。2000年1月2日には、国内の政治グループを、実際に権力を握っている実権派(當權派),貧富の拡大や治安の悪化を指摘して、以前の毛沢東に戻ることを主張するグループ、そして政体改革を急ぐことを主張する民主派の三派に分類。趙紫陽は李慎之をこのグループだとしている。
 さらに陳は2003年8月15日の宗鳳鳴との『談話』に注目する。そこで趙紫陽は顧准や李慎之は徹底した悟りを開いた人々(大徹大悟者)で、マルクスレーニン主義の意識形態からは決裂している、これに対して胡績偉、李鋭、杜潤生は党内民主派だと、民主派を二つに分けている。では趙紫陽はどちらなのだろうか?と陳は問を発している。
 これは確かに私も感じる疑問だ。陳はそこで杜潤生(ドウ・ルンシェン 1913-2015)との違いをみることで、この問いにある程度の答えを出そうとしている。宗鳳鳴との『談話』1999年5月6日、宗は、趙紫陽がマルクス主義をいかに改造するかなどの問題で趙紫陽が理論的な著述で貢献することへの杜潤生による期待を趙紫陽に伝えている。2年後、2002年2月23日そして5月8日、2度にわたり趙紫陽は、マルクス主義をどうこうするとか、なんとか主義といったことに自分は全く関心がないんだと答えている。
 また2002年1月27日の宗鳳鳴との『談話』ではつぎのような杜潤生と趙紫陽との間の乖離があきらかになっている。―趙紫陽が米国が世界で民主政治を推進しようとしているのは、それは自国の利益から出たことではあるが、それでも人類社会の発展とは一致しているとしたことに対し、杜潤生はそれは米国が覇権(主義)を行っているのであり、台湾を見ればそれが分かる、と反論している。
 つまりこのような杜潤生と趙紫陽の間の関心や、把握に食い違を示すことで、陳が示唆しているように、晩年の趙紫陽は、党内民主派の杜潤生たちよりは、顧准や李慎之にむしろ強く共感するようになっていたと思える。陳のこの「読書ノート」とでもいうべき一文は、そのことを私たちに改めて気づかせてくれる点で重要である。)

#趙紫陽 #顧准 #李慎之 #杜潤生 #文京シビックセンター

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