聂鑫森「典当奇聞」『長城』2013年第4期
賀紹俊主編『2013年中国短篇小説排行榜』百華洲文芸出版社2013年12月pp.150-159所収(原載『長城』2013年第4期)の要約(見出し写真は小石川橋から池袋線の湾曲をみたもの。下の川は神田川。右の道路は外堀通り)。
典当,当鋪,錢庄。いずれも同じで、日本で言う質屋である。品物を預かって金を貸すもの(抵押貸款)。この小説は、1940年代の湖南省湘潭が舞台である。当時、到るところにこの質屋があり、高利であることが知られていた。金利は月に3割から5割。期日までに買い戻せないことを「死当」という。当铺の店構えが監獄に似ているのは、その昔、監獄に居る人が在獄中に貸付をはじめその後、その仕事を続けたことに由来すると言った「基礎知識」の後、この小説は湘潭平政街のあった「潭豊当鋪」の話に移る。
3つのの話が続く。最初の話はこの店の主人である左銘碣と地元のヤクザ(青帮)の親分吴忠とのやりとり。或る夏の日、短剣(匕首)をもって店に乗り込んだ吴忠は、自分の体は質草にならないかと言い出す。左銘碣がなりますと答えると、自分の腕の肉を削いで台上に置き、「もし同じものが店にあるなら、受け取らずとも好い」と言い放った。左銘碣は、冷然と「すでにあります」と答えて、自身の腕の肉を削いで、並べて置いてみせた。吴忠は「なるほどお前は中国人だ。店にあるものを質草にはできない」と肉と短剣をもって店をあとにした。
その夜、左銘碣は銀貨200元を包んで贈り物の形にして手に提げて、人力車で吴忠の家に行き、雑談をして慰問した。吴忠は子分の前で面目を回復して大変喜び、「店の開業には何の心配もない」と請け負った。
1944年初春、日本軍が大挙南下し、長沙に近い湘潭にも、日本刀を腰に差した日本人が現れるようになった。そうした状況での二番目の話は、初春の雨の中、同業の馮辛其が相談に尋ねてくるところから。馮辛其が少し店を外していたときに、寿山を名乗る日本人が、もちこんだ品物で銀貨1000元を出すよう迫られ銀貨を払ってしまった。どうしたものかという相談である。見ると、直径2尺余りの皿の焼き物(瓷盘)で細工は丁寧である。左銘碣は、この品物を200年前の優れたものと見抜き(他方、寿山は自身の判断に自信はなく品物を引き取りには来ないことも見抜いて)、1000元で買い取っている。新品のように突起(毛刺扎手)があるのも皇帝の倉庫に眠っていたことを示すと見抜いた。月末の古美術品の例会ではすぐに1万元の高値で転売されることになった。
最後の話は、同年6月、湘潭が日本軍に陥落したあとのことである。
吴忠が寿山を連れてやってきた(吴忠は寿山に古銭で道案内を頼まれたのであった)。寿山はヒスイの印鑑をとりだし、これは2万元はするものだが、7000元でどうかという。左銘碣は仔細に観察の上でこれは良い品だといい、ただし利息5割先取りで3500元を渡すと答えた。別れ際に、1か月後戻られなければ転売しますと伝えた。
その夜、左銘碣はそのヒスイの印鑑を厳重に何重にも梱包し、店の若いものに地中深くに埋めさせた。なぜ埋めるのかという質問には答えず、左銘碣は決してこれを勝手に地中から出すなと命じた。そして「ヒスイは偽物だが、彼は必ず買戻しにくる」と謎めいた答えを返した。
(三日後の)午前10時に吴忠を先頭に寿山がやってきた。日本兵2人も連れてきた。預かり票(当票)と7000元の銀票が取り出された。ちょうどこのとき、左銘碣があらかじめ声をかけていた沢山の人が店に入って来た。
店の若いものが、ヒスイが入った箱を寿山に渡し、寿山は品物を点検した。「間違いありませんか」。どこも欠けていない。寿山は悔しそうに言った。「確かに」。
吴忠は「三日経ったのになぜ少しも変わらないんだ?」と言った。寿山は吴忠に、「それを口にするとはお前は馬鹿か!(八格牙路!バカヤロウ!)」とどなった。
直後にヒスイの印鑑は多くの小片に別れてしまった。このヒスイは、松脂、ろうそく、砂糖菓子などで作り、彫刻されたものだった。そのため、熱い盛りには、形を保てないはずのものだった。
寿山は狼狽しつつ、日本兵に撤退を命じた。馮辛其が、左銘碣に敬服の気持ちを伝えると、左銘碣は集まった人々に高らかに来場への謝意を伝えた。
コメント:この小説は、中国の典当,当鋪,錢庄、つまり民間の金貸し業の説明をしている。そこがおもしろい。そして三つの小話が続く。最初の話がシェイクスピアの『ヴェニスの商人』の翻案であることは、誰もが気付くが、とてもおもしろい。ただ腕の肉を削いだら、どうなってしまうだろうと、そのあとの惨状が気になる。その後ろの二つの話しは、悪者が日本人で、日本人の悪者をコケ(虚仮)にしている点が共通している。