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顧准:探索的過程 by 張曙光 2018

張曙光《中國經濟學風雲史》八方文化創作室,2018
p.948 顧准(グー・ジュン 1915-1974)の探索(人生上の大きな疑問に対して答えを得ようと探し追い求めること)は前世紀の50年代初めに処分を受けてから始まった。その思想の発展と探索の内容からみて、3つの段階を経ている。
 第一段階。発芽期(萌芽期)。1952年から1956年ソ連共産党20回大会前後。党校での学習期間が進んでいる。顧准の探索はすでにマルクス主義理論から開始され、(しかしまだ)完全にマルクス主義の範囲に収まっている。かつ主要には、個人の浮き沈みの展開をめぐって周囲をめぐるものだった。
 1952年2月29日、上海市は突然「市委員会財政経済委員会委員顧准は、一貫して過度の(厳重的)個人英雄主義、自身を優先させ(自以为是),組織に目を配らず(目无组织),党の方針政策に違反し、思想の上で、組織のなかで党と対抗し、度重なる教育にかかわらず全く改善がない。解職処分として、深く反省を命ずる。その華東軍政委員会財政副部長、上海市人民政府財経委員会副主任、財政局長と税務局長などの職責(則は責の誤植?)は関係方面一律にその手は除かれる(一并撒除)」(21 載《解放日報》1952年3月3日)。高位の身分にあり、順調で意気もあがっており(春風得意)なんら思想の準備もなかった顧准にすれば、これはまさに青天の霹靂であった。始まると、顧准は「心は多いに乱れ(心情煩亂)、精神(情緒)は沈み切っており,何もすることができず、常に一晩中寝ることができず、横になって道路の雑踏、車の音を聞いていた」(《顧准自述》第212頁  以下は簡単に《自述》とする)。のちに顧准は幾何学の中に厳密なロジックの実証方法を発見する。数学の学習を始め、途中で洛陽建築工程局(で)の挫折がある。とくに建工部党委員会と中央組織部とに対して「三反」による解職の再審査を何度も求め、認められなったこと(駁回)。1955年5月に党校に行き学習することを求めた、その主要目的は自己を反省し思想を高めるにあった。
 党校にいる間、顧准は『資本論』とマルクス主義のそのほかの古典著作を系統的に読んだ。その時の学習はむさぼるよう(如飢似喝 非常迫切)であったが、同時に急いで飲み込むよう(狼吞虎嚥)でもあり、自ら咀嚼思考しておらず、実際と符合しないことの有無を発見しておらず、解釈能力や予言能力に疑問を持たないまま、自己の観点を提起しているもので、完全な賛同、全面的高評価(極力推崇)だった。彼は『資本論』を読み、つぎのように話している。「今日また『資本論』の四、五、六の3章を読んだ。まさに方毅が言ったとおり、素晴らしい(真好呀!)。マルクスの工業過程、技術経済過程の総括と研究、各種経済形態(の総括と研究)、(それは)古代社会の経済分析まっすぐ至るもので、資本家を憎悪すること(憎恨)そして労働階級を愛すること、鉄の法則に対する科学的で冷静な態度、該博な知識、美しい文章(とても読みにくいが不很好地讀,美しい文章がなくはない還看不出文章的美麗)、まことに資本論は政治宣言であり、科学著作であり、文芸作品である。」(《顧准日記》第22頁、以下では簡単に《日記》とする)。『資本論』の中の資本の原始蓄積の一章を読み終えた彼の認識と評価は「資本の原始蓄積は、最良の経済史であり、重要問題はすべて議論されている」(《日記》第24頁)、「資本蓄積法則のメモ書き(劄記)を終えた。・・・第一巻第23章は剰余価値から、有機構成、相対過剰人口、産業予備軍(後備軍)が一気に論述されている。第三巻第15章は利潤率この観点から、生産過剰を論述、資本過剰と人口過剰、二種類の状況が同時に存在することを論述、それは規律―利潤率が下がる規律であり、資本主義の絶対的規律である。このすべての論証は十分に厳密である。かつ弁証法のお手本である(《日記》第35頁)。この時顧准はなおマルクス主義は完全に正確だと確信していたが、その思想はのちに発展し探索の結果を見て、基本この観点を放棄するにいたったのである。
 この時期の探索の一つの重要な指標的成果は、1957年に発表された《社会主義制度下の商品生産と価値規律についての試論》である。《試論》は社会主義市場経済といったたぐいの言葉は使っていないが、市場価格の変動の社会主義生産と分配への調節作用を充分肯定しており、社会主義経済の運行と発展が市場志向(取向)を堅持するべきことを明確に示している。これは顧准が30年代に上海で自身受けた経験が大きく関係している。《試論》はマルクス理論の二つの欠陥を明確に指摘した。一つは計画経済の問題をただ議論するだけで、経済予算についても、経済予算と経済計画との関係問題についても全く考慮していないことである。二つは商品貨幣を否定しかつ価値の存在を肯定する、しかしマルクス主義の理論立場を保持するなら、その説はよくない(批評)、そのように言わないことが解除であり救いである
   (中略)
p.950  第二段階。耕耘期。1956年ソ連共産党20回大会から1962年まで。主要には労働改造中で進行。この段階において、顧准はマルクス主義理論をソ連と中国の実践の関係から出発して、比較し、懐疑から批判に至っている。分析(解構)から発揚と放棄の区別(揚棄)へ,反省から革命へ、革命勝利以後のこのような問題へ。
  (中略)
   (20回大会でのフルシチョフ秘密報告の伝達のよるソ連そしてスターリンへの幻滅 中国は違うとの期待)すぐに1957年の反右派闘争は顧准の人の好い願望を徹底して打ち砕いた。ソ連とスターリンに比較して、中国も変わるところがなく(而無不及)、顧准自身が被害者だった(也被殃及)。(中略)
p.951 1959年に至り、顧准の探索は初歩的結果に至る。かれはマルクスの資本主義と社会主義への予言と現実との背離に問題をみいだし、マルクスの理論体系に懐疑を持ち始めた。(中略)”・・・私は現世に注目する。地上に天国があると信ずることができない。・・・目前に萌芽のないものは、未来に出現できない。・・・絶対主義―専制主義,弁証唯物主義に血縁関係にあるものだが、これは受け入れがたいものだ”(《日記》第118-120頁)。ここから顧准はマルクス主義への分析と批判を完成させた。彼はマルクス主義を人類の認識の一つの段階そして一つの面(片面)を認識した(看作)もので、究極的真理とか人類思想の指針(指南)ではないとし、彼の理論転向、理想主義から経験主義への転向、一元主義から多元主義への転向を基本完成させた。
 (中略)
p.953 第三段階:収穫期。1962年から1974年。これはかれの開拓前進で収穫を開始した時期である。環境は日増しに悪化し、絶え間なく不安にされたり(干擾)攻撃されたりではあったが、だが彼の探索の決心は固く、探索の歩みは変わることなく(穩),探索の行動はとても早く(急)、生命のその最後の一刻まで続いた。

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