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周其仁 企業理論と中国改革 2017

 現代経済学のさまざまな枠組みのなかで、コースの企業理論が実は中国の経済改革と相性が良かった。周其仁のこの論文はその点をよく示している。現代経済学というと、数理的モデルを使うものを思い浮かべがちだが、コースの議論はそれらとは異なっていて、企業の本質を取引コストから明らかにしている。逆に言えば、市場とは何か、企業とは何か、そうした原理的な考察がコースの議論に含まれている。
 市場取引には取引コストが存在している。ここでは取引コストを下げようと、企業は取引を内部化することがあるとしている。これは内製化とみることも、企業規模の拡大とみることもできる。しかし、それには組織化コストが伴う。取引コストと組織化コストが釣り合ったところが、企業と市場の境界になると。周其仁はコースの議論を以上のように説明する。
 このコースの議論を使って、社会全体をひとつの会社(超級的国家公司)にした状態を社会主義経済体制として、そのあまりにも組織化コストが高い状態を改め再度市場を生み出そうとすることが、「改革開放」であったと、周其仁は説明しようとしている。改革開放の説明として、大変おもしろい。理論的部分を含む、前半p.33までを訳出する。この論文の書誌事項は以下の通り。
 周其仁<公司理論與中國改革>載《中國做對了什麽》中國計劃出版社2017年,25-40

p.25 
コースによれば企業は市場という海の中の島である
    計画経済の思想の起源の一つは企業理論である。マルクスは述べている、大会社の内部には計画がある、だが全社会は無計画である、まさにこの矛盾が資本主義を滅亡に向かわせると。その時の(計画経済の 訳者補語)観点は、生産力はますます社会化する、それゆえ企業はますます大きくなり、全経済を覆うに至り、大会社内部の計画は全社会の計画に変えられる。このように見れば、計画経済の理論は、実際は最も最初はまさに一つの企業理論である。レーニンはさらにはっきり述べている、無産階級が指導する社会主義、これは全社会成員をすべて国家企業の雇われ人に変えるもので、(そのとき一国の)全経済は一つのスーパー(超級的)国家会社である。
 コースは彼の企業理論を回顧して明確に述べている、彼自身かつてレーニンの上述した思想の影響を受けたと、すなわち国家もまた一つの大きな会社とみなすことができると。当然、コースが提供したのは、企業の経済学分析である。彼はまず「十分な(充分)競争」市場内で、すでに価格メカニズムを用いてすべての資源が配置できる場合に、なぜ価格メカニズムに頼らない企業がなお存在するのか、と問う。コースの答えは市場の価格メカニズムにはコストが存在するからだというもの。このコストは人々が良く知っている生産コストではなく、生産コスト以外の、完成製品の交換するために生ずる取引費用である。市場の拡大とともに、交易費用はとても多くの資源を消耗せねばならない。これらの場合において、価格メカニズムを用いた「市場協p.26    調方法」を、内部で費用を論じない(方法に)変える、命令指揮する「企業協調方法」に頼ることで、顕著に取引費用を節約できる。コースのこの理論によれば、企業が存在しないことも、取引費用を節約する一種の組織なのである。
 とても面白いのは、コースは「完全市場」から出発し、市場取引に費用が存在することを発見し、その後に市場内の企業組織に至ることである。しかしコースは国家スーパー会社というはるか遠くまでは進まない、というのは彼の分析は、別の費用、すなわち「組織費用」に至るからである。その会社は市場取引活動に集中することで、企業組織の費用(決定、監督、管理の費用)も上昇する。
 完全かつ全体を見ると、コースの企業理論は同時に二種類のコストを考慮している。企業は市場取引費用を節約できるが、ただしまた組織コストを支出せねばならず、企業が取引費用の節約と、組織コストの増加が境界(邊際)で等しいとき、企業と市場の境目(邊界)も確定する。コースは彼の先生が用いた例えをを用いた、現実(真実)の市場経済は大海のようなものだとすれば、企業は大海の中の大小の島のようなものだと。コースがみるところ、取引費用と組織費用が併存するのが現実の世界である、海はすべてを覆うことはできないし、島もまたすべてを覆うことはできない。

改革の出発点:仕事(運轉)が活発でなかったスーパー国家会社
 社会主義国家の改革は、コースの出発点とちょうど逆である。コースは現代経済学の「完全市場」の仮定から出発し、企業あるいは企業存在理由を発見した。ソ連と中国の体制改革は実践上の計画経済、即ち一つのスーパー国家会社の現実から出発した。このスーパー国家会社は、あらゆる経済資源を自己の手中に握っており、国家機関の政治権威、強制力そして全般計画に頼ることで国民経済を組織している。レーニンが政権掌握後、一時「新経済政策」の時期があった。国家は経済の血脈を統制
p.27  するだけで、大量の小工業、小商業、小農業は皆私人と市場に与えられたが、とても短い間だった。スターリンは全般国有化を推進し、ソ連の経済組織をレーニンが革命前に仮想したスーパー国家会社にした。内部は行政命令による組織計画経済で、私人財産権と自由市場活動には合法地位が与えられなかった。
    次の中国はさらに遅れた農民国家の中に社会主義を建設、大きな骨組み(大框架)はまたソ連に学んだ。しかし毛主席はソ連の高度集権に対してまたはなはだ不満で、何度も分権を試み、中央の権力を地方におろそうとした。振り返ってみれば、それはただ中央政府と地方政府の間の分権に過ぎず、一つのスーパー国家会社とそれにくわえるに多くの地方政府会社の(間の分権にすぎなかった)。これは当然、市場経済の基礎を構成するものではありえない。というのは「一大二公」といった問題(人民公社の基本点を大、規模の大きさ、公、公有化の程度がより深いことに求めるとした1958年の標語 訳注)のうえでは、毛主席は一歩も譲らなかったから。(だから)どこの地方政府が、経済の決定権を私人の手に渡すだろうか。年配の彼は(他老人家)必ず止まれと叫ぶ。1962年に「三自一包(自由市場、自留地、自営業そして請負制のこと)」を批判したように、各戸請負責任制に止まれという。それゆえ全体としてみると、改革前の中国に分権はあったが、私人財産権は受け入れられておらず、私人の間で自らの意思で市場契約を結ぶ合法空間もなかった。全経済の骨組はなおスーパー国家会社であったが、内部は一定程度ソ連ほど高水準でない計画経済だった。
   このように見ると、社会主義改革の実際の出発点は決して取引費用が高すぎることではなかったのだが、企業組織を拡大することで市場取引費用を節約することになった。多年、社会主義経済建設を苦しめてきたのは、スーパー国家会社の組織費用が高過ぎ、計画経済が機能を発揮せず(失靈)、資源配置の効率が低すぎることであった。1100万のひとが和平時に生活を改善したいとして、需給の変動その協調に関係した?計画経済に頼った結果、スーパー公司は集権決定策を取った、情報コストがあまりに高過ぎ、人々の仕事労働の激励は足らなかった。1977年の中国改革の前夜。国務院務虚会が開かれ反省した。なぜ中国と西欧主要国家の経済は、技術差はさらに広がるのか。主要な結論は、過度に集権的な計画経済はますます動かない(転不動)ということであった。

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改革の発動 権力下放と農村の戸別請負制
 問題は、スーパー国家会社が成立したあと、一旦組織コストがあまりに高いことが発見されると、どうすれば(どの道を歩めば)経済運転コストを下げられるか、(これは)確かに空前の(前無古人的)任務であった。コースの理論は発見している、いわく、市場内の取引費用があまりに高いのであれば、企業組織を拡大することにより節約できると。しかし社会主義改革は完全に自縄自縛(自成一家    自分独特の方法)となった。国家スーパー会社はあまりに大きく、組織コストはあまりに高い、一体どうすれば下げられるか?
 方向はおそらく容易に決まった、それは全国民経済を覆っているようなスーパー国家会社を、「市場の海」がより大きな空間となるよう向かわせ、見えざる価格メカニズムの手が資源配置方面でさらに大きな作用を発揮させることだった。これはおそらくまさに「市場化改革」戦略の由来である。しかしすべてが一体である(在鐵板一塊)すべてが公有の体制(公的体制)のもと、市場を一体いかに再建するかは、人類歴史で経験も理論のいずれもないことだった。 
 コースは1959年のある論文の中で指摘している、権利の境界確定(界定)にあいまいさがないこと(清楚的)が市場取引の重要条件だと。この命題は素朴な道理を含んでいた。もしあるものが私のものでなければ、それなら私のどこにそれをあなたに売れる権利があるのか?それゆえ、取引は権利の境界確定を前提にしている。市場経済は取引がその内実(内容)であり、であれば市場の前提はあいまいさがない権利確定である。
 中国の改革は、実践上は再度新たに確定した権利を入手することからであった。「鄧小平は何を正したのか(做對了什麽)」の一文の中で、私はこの過程を回顧した。もともとの公有制計画経済(もまた)、実は一組の権利確定である、すなわち人々に許される行為、許されない行為(を定めた)一組の制度規範である。改革の形勢が差し迫る中、権利が再び新たに定められ、まさに権利が再び新たに定められたことで、とくに私人の財産権と譲渡権(轉讓權)が再び新たに承認され、市場関係はようやく再びあらたに中国で発展を始めた。
 1978年十一届三中全会部署の改革は、国有企業自主権の拡大であった。
p.29  それは四川地方の改革試験のときであったが、もともとは国家経済機関に由来する統制決定権を企業層(層面)に下ろした(放到)のである。これは外部からの衝撃への一種の反応であった。というのも外資が中国に侵入を始め、彼らは迅速に決定できるが、国有企業はそうではなかったので。なにもかもすべて(上部の)批准が必要で、多くの国有企業ではトイレ一つ作ることにさえ電報批准が必要だった。いわゆる「醤油を買うお金で酢を買うことはできない(打醬油的錢不能買醋。お金は定められた用途に使わねばならない、勝手に使途を変えてはいけない。調べると蒋経国の言葉としてでてくる。訳注)」である。当時福建の国営工場長は言った、我々は競争力がないわけではない。しかし我々は手足を縛られている。国家はまず私たちの制限を緩和すべきだ(國家要先給我們鬆綁)。新華社記者の重慶鋼鉄公司を調査したときの話はとても有名だ、そこに洋務運動時代の一組の設備があった、エネルギ―の損失がはなはだしく(能耗極大)もしやり方を変えたなら(如果動力改一改)、2年間のエネルギの損失の節約で投資を回収できたほどだ。しかし報告が出されて数年経って、なお上部の意見はなかった。それゆえ、当時の改革のスローガンは、権限を下ろせ、制限を緩和しろ、だった。
 興味深いのは、企業の自主権拡大が全体に広げられるより前に、農村の戸別請負制改革が日程に挙げられたことである。先行する数日農村改革三十年を記念する会において、同年広東農村工作を主管していた杜瑞芝は、優れた例え話(一句精彩的話)をした。農村改革の第一の動力は農民の胃袋(肚皮)だった。土地を耕す人が腹一杯食べれない、飢えているというのはダメだ、迫られて戸別請負制を行ったと。決して初めてのことではなかった。最初の戸別請負制は温州永嘉縣で、1956年後半に高級社で開始された。1961年に安徽省では40%の生産隊が戸別請負制を行った。問題は形勢が好転すると、臨時政策は直ぐに撤回されたことだ。

中国の道:底層でのイノベーション(創新)を政府が承認した
   
1978年後の農村改革を子細に観察すると、農民と生産隊幹部はまず下層(底下)において改め、自発的に戸別請負を実施した。そうでなかった地方がどこにあるのか?これは上層の政治思想の根本変化があったのである。執政党は気持ちが落ち着いた今過去の苦しみを思い(痛定思痛)、実事求是(真理を求めるに事実を判断の基準とする)ことを提起し、本本主義(教条主義と同義 毛沢東に由来 中国の現実にもとづかず古典やロシアの経験を振り回すことを戒めたとされる)、教条(主義)そしてミイラ化に反対した。この思想路線のもと、一部の地方では率先して、底層の改革実践を承認し、批判を避けて、試すことを許し、
p.30    観察した。多くの地方で改革の効果が確認され、政府は再度政策に用い承認を与えた、最後には立法で承認し、権利を新たに定める合法化全過程が完成した。
 この「中国の道」はとても価値がある。というのは権利の境界の確定は、再び新たに定めたものであり、行為と予想(預期)については、もし予想が安定しないなら、人々は長期行為をできなくなる。中国の方法は、底層改革をまず局部が承認、その後、政策不変と長期不変を不断に重ねて説明して、最後に機が熟したら、立法を推進し、改革について権利真正を新たに権利の境界を定めることで、法律層面を定めるというものである。
    杜潤生老は彼の回顧録の中で指摘している。鄧小平は早くも1962年に次のように言ったことがある。「生産関係は結局どの形式が最もよいか(については)、以下のような取るべきではないか、すなわちどの形式であれがどの地方でもより容易により迅速に農業生産を回復発展させることができる、(でれば)その種の形式を採用する。群衆がその種の形式を採用したいなら、その方式を採用すべきであって、法律規定に適合しないなら、適合するようにする。」とても幸いなことに、このような施政態度が、十一届三中全会までに主導路線になった。これが中国の命運を変えた、というのは底層において、第一線において、実際問題解決の方法をひねり出す上で、問題は彼らが上層建築の合法承認を得られるかどうかにあったからである。得られたなら、権利の境界をあらに定めたことは制度の成果である。得られなければ、底層の経験あるいは個別の経験は、数が多ければ暫時適切であるが、永続的ではありえない。
 「上層建築」は簡単でない。思想と観念には大変強い固執(頑固)性があり、各方の利益には矛盾があり、各人の問題を見る角度はいつも同じではない。1980年の中央会議は農村改革を討論、省委員会書記そうした高級幹部もまた観点が異なり騒ぐのだけれど一つにならない。「君は前途ある道を歩めばいい、僕は困難な道を歩むまねだ。」これは吳象同志の当時の大作の(書名)であるが、底層の自発改革が上層の承認を得ることの容易でないことを表している。それ故に、実践が真理を検証(檢驗)するというというのは、やさしい過程ではないことが分かる。
p.31   権利の境界を新たに定めることは、急進もまた漸進もできる。中国改革の過程は大体一歩ずつである。すなわち今日みると、この農村土地所有権はなお集団に属している、およそ十年前と同様である。ただ所有権が意味するところ(内涵)は改変された。請負契約を通すことなしに、農地の使用権、経営権、収益権。さらに請負期間中の転譲権は、一項目ずつすべて個別の農家に与えられた。農地の集団所有権はなお存在しているが、この所有権の箱の中に、なお一つの内容が残っている。それは定期的に農地を個々の農家に与えるというもの。このことを別にすると、集団は消極的所有者となり、生産そして経済活動のなかで、積極的な請負者は農家である。
 ある友人はこの請負制は不徹底だと批判する、なお所有権を意味する集団を擁護するのかと。というのもそれは基層の権力のある人物が農民の利益を犯す制度の基礎だからである。この批判には道理がある。しかしもし戸別請負制でこの一歩を歩まないなら、中国の農村はまったく変わらない。まずはこの一歩を進み、あとでなお一歩財産権確定の道を進み、さらに進むことができる。請負制はなお集団資源の一種の経営方式であるが、農家の請負所得は、はっきりした合法私有財産でありうる。これは「不徹底な」請負制が、改革の深化に向けた橋梁となりうることを説明している。この改革のロジックは、農業の請負制の中で成立するだけでなく、農村の非農業活動、さらに小都市、大都市の国有工商業請負制改革のなかで、また等しく普遍的に成立することである。これはその後の話であるから、ここでは書かないことにする。
 請負制は、権利の新たな境界を定めた一種の中国のやり方(形式)であり、またスーパー国家会社が高い組織コストの困境の中から這い出る一本の現実的通路だった。公有制の請負責任制から、合法的私人財産権の保護に至り、財産権内には多様な財産権制度が形成され、最後には中国が歩む市場経済の道を確固としたものにしたのである。

p.32   「搾取」の疑い:他人を雇用すること(雇工)の合法性

 
財産権は説明するものではなく、用いるもので、交換を通じて形成される分業といった、他人との共同作業(合作)をとくに保障するものである。ここで少し面倒な問題(事情)が出てきたのは、即ち他人を雇うことである。農業の大鍋飯が終わるとともに、農村に大量の「剰余労働力」が出現した。農業内部では不要なので、商業と工業に入る必要があり、他人を雇う(雇用工人)現象が出現した。これは伝統的社会主義の敏感な話題だった。もともとスーパー国家会社をした目的は、資本主義搾取をなくすことであった。当時の政策は、私人が7人を超えて(超過七個   7人以上)工人を雇えば資本家で、搾取階級だというものであった。
 これは各戸請負制を続けた後、改革がぶつかった二番目の大事件であった。このことの処理はどちらかと言えば成功した。基本方法はまず観察し決定を急がず乱暴に取り締まらないというものだった。
 当時注目された案件がいくつかあった。一つは広東高要県の陳志雄のもの、養魚を請け負い、三百余ムー(畝)の水面を有し、家庭労働力と何人かの手伝いでは不十分で、7人以上工員を雇った。これは資本主義なのか?とても多くの人が討論を始め、のちに胡耀邦自ら質問し、情況を明らかにすることを求め、異なる意見の争論を認めたが、こん棒は必要ないとした。さらに『人民日報』上で公開討論を決定した。このような問題はかつては討論もできなかった、討論が自由化されたことで、この現象はそれほど恐ろしいことではないことになった。
    二つ目は安徽省蕪湖の年廣久の、有名な「傻子瓜子」であり、六十余人を雇い、賃金水準は当時当地の国有企業の労働者の賃金水準より高かったが、福利といったものはなかった。彼に雇われた人はもともと国有企業の「鉄腕飯」とは関係がなかった。当時の調査でもっとも重要な発見は、年廣久の成功により、本当に多くの人が瓜子を炒ることを始め、ある人が雇い、別の人が雇い、雇用主間で競争が増えたことが、労働者に良い影響があったことである。杜老(杜潤生)は自身で調査を組織して、情況をとても子細につかんp.33   だ。実際どれだけの人が雇われ、どれだけの賃金が支払われ、国家にどれだけ税金が納められ、工場主たちが全部でどれだけの利潤を得たか、すべてをきっちり調べた。そのうえで異なる意見の論拠をはっきりとまとめて、整理した材料として鄧小平に報告した。記憶される鄧小平から返された指示は、ただ五文字ー「先不要動他(当面彼をそのままにせよ)」だった。この「動」の字がとても検討しがいがある(講究)、過去資本主義を批判するのに批判の武器を使わず、常に「武器の批判」をし、それが独裁(専制)手段を用いることに対応していた。この鄧小平の言う「不要動」は、古いやり方をそのまま続けることは許さないということである。「不要動」の前にある「先」の字から、我々は党内の不同意意見に少し譲る余地を残していること、少なくとも見て良いとし、試してよいとし、そのあとの結論で遅くはない、ということを理解する。
 経験を重ねることによって、社会主義は私営企業に何ら真実の危険がないことを承認した。これは中国経済発展の非常に重要な一歩であった。実際、鄧小平が執政に復帰して間もなく、榮毅仁を再度起用した。国家が中信公司に出資、ただしその管理全権を榮毅仁に与えた。実際上は国有資本に企業家の能力を加えた―これは過去には想像もできないことだ。このほか、戸別請負制後、民間には多くの新たな企業組織が自発生成した。鄧小平は一貫して見てみよう、そのままにと言い続けた、こうした政策の方向がおよそ2年から3年続けられた。1986年の中央5号文件が宣布され、私人企業が社会主義の枠組みのなかで自由化(放到)された。中国の工商登記が「私人企業」の類別での登記を開始した。当初は多くの人は堂々と登記にゆくことをためらった、なお赤い帽子がいくらか安全に感じられた。ただ温州は違っていた。登記条例ができると、温州では当日だけで百十の民営企業が登記した。なかには証明書を受け取って涙を流す者もいた。遂に合法地位をえたとして。これは中国の改革の第二の飛躍だった、労働者の自己の労働能力という財産権が承認されただけでなく、法律と政策の枠組みの中で、市場を通して人を雇うことを含めて組織経済を契約することが出来、生産を発展することができる(ようになった)。


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