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共産党の対国内経済改革 1949-1973

 區慕彰     羅文華《中國銀行業發展史  由晚清只當下》香港城市大學出版社2011年pp.83-88

p.83  三年にわたる国共内戦を経て、1949年、中国共産党は北平(北京)において中華人民共和国成立を宣言(宣佈)した。国民党は台湾に退き、中共が大陸の唯一の執政党になった。
 正に経済方面を重視して、中共は新中国政権まだ正式に成立(建立)する以前に、全国の財政経済を処理する専門機構の設置に着手した。1949年5月、党中央は、全国の財政経済工作を統一指導する中央財政経済委員会を開設(建立)、併せて,財政経済状況進行の調査研究に陳雲(のちに政務院副総理に任ぜられた)を主任としてあたらせた(委派)。このように早期の財政経済委員会開設には理由があった。中国を解放するの一朝一夕でできることではない。一つの区、一つの都市というように実現するものだ。中共指導者は、ただ戦いに勝利するだけで、解放した都市を上手に管理できなければ大事を最後の人かごの土の不足で完成させないことになる(功虧一簣)。
   1949年5月、上海が解放された。当時の経済金融の中心である上海の形勢が安定するかどうかは、全国の解放後の形勢に直接影響する。このため、1949年5月上海への進軍から1950年初めまで、陳雲は当時の上海市長陳毅将軍は合わせて「両陳」と呼ばれたが、上海の投機商人と、貨幣と商品に対する三次にわたる激烈な経済戦を展開した。
 第一戦は銀圓大戦で、金融投機商はこの戦闘中は全軍身を隠していた。上海解放当日、陳毅はすぐに宣言した。「即日、人民幣を計算単位とする。人民幣と金圓券の交換(兌換)比は1対10萬。6月5日前までは金圓券は市場でp.84    流通は暫定的に許される(暫准)」。6月3日まで交換された金圓券はあらゆる銀行の金庫を満たし、道路上の車に積まれることになった。しかし金圓券は回収されるが、人民幣は出されない(卻兌不出)。多年の悪性通貨膨張で、市民は紙幣を信用しなくなった。投機商は機に乗じて「黄白緑」ー金、銀圓、米ドルの売買(炒作 投機的売買)を行い、わずか10日で銀圓価格は2倍近くに暴騰、市中では人民幣の使用が拒まれた。混乱した形勢を統制するため、二人の陳は相談。断固たる軍事手段の採用を決定した。6月初、簡易武装した軍警が上海証券ビルを包囲、すべての銀圓投機活動は停止させられた。その後、全国各地の証券取引所はすべて封鎖され、「資本市場」は中国の経済舞台から退出した。民間の金融活動は徹底して停止された。上海はもはやアジアの金融の中心ではなくなり、香港がその地位に変わった。証券取引所が上海バンド(上海灘)に再建され活動するのはちょうど41年後のことである。
 銀圓大戦が終わった後、続いて起こったのがガーゼ(紗布)大戦だった。当時全国の物価は激しく動揺し(動蕩:動盪)人民幣は大幅に減価した。あらゆる高騰商品の中で指標になったのが、政府が購入するガーゼであり、主戦場は上海だった。この問題を解決するため陳雲が用いた方法は供給の増加であり、全国の力を上げて上海問題を解決した。上海に陣取った陳雲は各地に次々と十六の指令を出した。各地に中心都市にガーゼを集め命令を待つよう指示、人民銀行本店にはすべての貸付を停止させた。一連の準備の後、11月25日、陳雲は全国で統一歩調で一斉に、上海、北京、天津、武漢、瀋陽そして西安など大都市で大量にガーゼを売りだした。
 売り出しが始まると投機商が争って買いだめをし、高利貸しの利息を惜しいとも思わないほどだった。しかし各地の国営ガーゼ公司から切れ目なくガーゼが売り出され、そのたびに価格はさがった。ついにある投機商が手元のガーゼを投げ出した。この情報が伝わるや市場の局面は逆転した(この後の記述は民営企業の経営者が、投機に加担していたことを示唆するのかもしれないが、突然、民営企業の話しが挟まれてるー福光)。二人の陳は、あらゆる国有企業のカネは一律国営銀行に入金することとした。私営銀行に入金したり民営企業に貸し付けてはならないと。私営工場には閉鎖を許さず、かつ(労働者へ)工賃を払えと。同時に数日のうちに徴税を強化し納税に遅れてはならないとし、遅れた場合の延滞税(罰税)は税額の3%だとした。ある人が陳雲にこれはすこし過酷(太狠了)ではないか、と聞くと陳雲は答えた。「過酷ではないさ。もしこうしなければ、天下は乱れるだけだ。」投機商は繰りかえし両面を殴られ、
p.85  資金と心理の防衛線は同時に崩壊、代表を派遣して政府に彼らの手にあるガーゼの買戻しを求めた。そこで二人の陳は極めて低い価格で買い上げた。このやり取りの結果、上海商人は大いに傷つき、ある人は元手をすってしまい(血本無歸),ある人はその日の支払いができずビルから飛び降り自殺し、ある人は香港に隠遁した。
 実際のところ、二人の陳がガーゼ大戦で用いた戦法は、毛沢東の歴戦歴勝の軍事思想からきている。すなわち「集中で優勢な兵力とし、敵は各個殲滅する」「準備なしには戦わない」。これはもともとは共産党を軽視している経済学者を敬服させることになった(心悅誠服)。
    ガーゼ大戦が終わるかどうかのところで、二人の陳はすぐに第三戦-糧食大戦に入った。1949年秋、華北の糧区が天災にあい、作物は不作で、糧食の形勢は十分厳しかった。ガーゼ大戦の計画を立てていた時、陳雲は北方の投機商が糧食価格を集中攻撃することをとても心配した。両面で敵を受けることになると。そこで彼は一計を案じ、東北に毎日一列車糧食を北京の糧倉へと発車を求めた。かつ毎日運送量を増やさねばならないと。北方の食糧商は(これに)誤って導かれ、多くは軽挙妄動しなかった。ガーゼ戦争が落ち着くのを待って、陳雲は糧食に専念した。
 当時上海のたくわえは8000万斤に過ぎず、市民食用20日余りにすぎなかった。各大都市も糧食不足に直面していた。上海の糧食商大量の在庫をもち、糧食の取引開始を待っていた。12月、中財委員会は会議を開き、全国に対して統一して糧食進行の実態配置を調整した(統一調度糧食進行具体部署)。陳雲は東北、華中、四川などで糧食の調達をもとめ、同時に上海周囲の配置(部署)に三つの防衛線を求めた。この三つの防衛線だけで、政府の掌握する糧食は十数億斤に達し、上海の1年半分に足り、京津、武漢など大都市の糧食もまた大量に補充できた。手配(部署)の結果、糧食取引市場の糧食価格は安定し、上海では国営糧店が広範に開設され、2億斤あまりのコメが売られ、投機商もまた売らざる得ず、その損失は途方もないものだった(この説明はわかりにくい点があるのは、華北の天災が全国的な糧食不足にならなかった理由が、全国的な糧食の調整によるのか、他地域の豊作や糧食調達によるのか、あるいは投機商たちの在庫が吐き出された結果なのか、今一つロジックがはっきりしないところによる。-福光)。
 この三つの戦役の結果、上海の物価は安定し始め、1937年抗戦開始以来、中国経済を悩ませた来た悪性通貨膨張は陳雲により抑えられたのである(遏住)。
    この三つの戦役を指導指導した陳雲には、 「共和国の赤い番頭さん(紅色掌櫃)」の呼び名がある。陳雲は貧しい農民家庭に生まれ、幼いときに両親を亡くした。彼は自学自習で才能を得た人(自學成才)でかつて上海商務印p.86   書館で見習い(學徒)として、発行所の文具売り場(櫃檯)で練習生を務め、1925年に中国共産党に入党し、のちに中央委員となり、ソ連に行き学習した。1944年3月、陳雲は西北財経事務所での仕事で、彼は辺区の銀行の企業性質を把握し(將)借りたら返すまともな(正規)信用制度を建設(建立)、各単位に銀行貸付(款項)の流用(挪用)を許さなかった。金融を安定させるために、彼は貨幣(邊幣)の発行には法貨(法幣)準備金が必要だと、すなわち貨幣管理局制度に類似したものを提起した。中共建国後、国家経済崩壊局で陳雲は危機に面して命を受け、全国財政経済の仕事を主管し、半年余りの時間を用いて、全国財政経済を初期的に統一し、物価を迅速に安定させ悪性通貨膨張を終わらせた。続いて生産資料私有制、特に私営工商業の社会主義改造、すなわち公私合営を次第に完成させた。この後中央財政委員会主任を長期担任、国務院副総理であり、新中国経済建設の政策を決定した一人である。彼の政治生涯には浮き沈みがあり、建国初期には中共指導核心五大書記(毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、陳雲)の一人である。50年代半ば後の時期、陳雲は周恩来とともに経済の過度な拡大(冒進)に反対し、毛沢東の批判をうけたあと仕事から外された(投閒置散)。1962年大躍進失敗後、毛沢東は「家貧しくして賢妻を思い」、再び陳雲を起用し、(陳雲は)劉少奇、周恩来、鄧小平とともに局面(残局)の収拾にあたった。文革中、陳雲は失勢し党副主席から並みの中央委員に降格された。1973年に周恩来は中央工作を担当し、文革の混乱を整頓するにあたり、陳雲に外国貿易と金融を委託した。(陳雲は)中国人民銀行に資本主義をよく研究せねばならないと指示している。文革が終わったあと、彼は再び中共副主席を任された。中国の改革開放後に至るまで、市場経済に向かうことと経済転型について貢献はとても多い。陳雲の仕事(工作)方法が15字にまとめることができる。「ただ高みを目指すのでなく、ただ書かれたものによるのでなく、ただ実際をみる。意見を交換し、比較し、繰り返す。」(不唯上,不唯書,只唯實;交換比較,反復。)その子の陳元は、かつて中国人民銀行副行長を務め現在は国家開発銀行行長、また著名な経済学者であり著書として『香港金融体制と1997』などがある。
 共産党が信奉するのはマルクス主義であり、社会主義と共産主義の発展である。共産主義の観念で経済上主要であるのは、資本主義私有制を廃止し(取消)、社会主義公有制を建設することである。このため、早くも全国解放前の1949年3月に召集された中共七届二中全会において、すでに国家が私人資本の商工業に改造を進めることを確定し、
p.87   これに従った措置が共産党が大都市を接収した日に開始された。全国解放後、中共は1949年から1956年までの間に経済措置を実行した。すなわち資本主義と私有制を漸次消滅させた。この歴史は「社会主義改造」と呼ばれる。
 改造の主要形式として、私人資本と国家資本の協力(合作)形式が取られた。国家資本主義は初級形式、中級形式、そして高級形式に分けられる。国民経済の三年回復時期において、国家資本主義は主要に初級形式と中級形式を実行する。すなわち(国家は)工商貸付を行い、工業原料を供給し、私営に加工を委託し、私営工場の製品を購入し、私営商業に代理購入を委託するなどの方式である。同時に国家資本主義の高級形式である公私合営もこの時期で誕生した。
 いわゆる公私合営は、国家資本と私人資本の合体(合作)である。私人資本が国家資本主義の方向に発展が励まされたもので、たとえば国家企業のため加工する、あるいはまた国家と合営するあるいは、借りる形で国家企業を経営する、国家資源を開発するなど。これらの方式を通じて、国家は次第にもとは官僚資本投資あるいは旧政府の財産であった企業を公私合営企業に改変した。
 新中国の公私合営改造はおおよそ二つの段階を経た。(1)個別企業の公私合営と(2)産業全体の公私合営である。個別企業の公私合営は私営企業における公有株(公股)増加であり、国家は企業の経営管理に責任を負う幹部を派遣駐在させた。これにより企業には大きな変化が起きた。(1)一夜にして資本家は公私共有となった。(2)資本家は企業の経営管理権を失い始めた。(3)企業の利益分配は制限された。もともとの株主は資本家の身分による職権をもはや行使できず、次第に自分の力で食べる労働者に変化した。
 公私合営の進展はとても速かった。1956年に陳雲は「公私合営で注意すべき問題」と題した講話を発表した。彼は全国各地で私営工商業がすべてとてもはやく公私合営となったという、しかしかなり多くの重要な仕事がまだなされていないと、たとえば清產核資(企業の財務を調べて企業の必要性を確認すること)、生産の組織化(安排),企業の改組、人員の適正配置(安置)、専業会社の組織など(がなされていない)。彼は大商店,小商店、夫婦に店すらすべて合営化されたと指摘する。過去店員を雇わない百分の五十以上の商店について政府は、これらの商店は代理販売方式の経営を採用するとしていたが、彼らは日々ドラや太鼓を鳴らして申請書を提出、公私合営を要求した。ただ認めるしかなかったのだと。
 陳雲の談話の中で、彼は資本主義商業のあのやり方にもしも一律に対応することは経営に不利だと指摘している。小店舗の経営は百貨店会社と同じではないと。住民はとてもこのような店舗を必要としているので、小店舗は経営できるのだ。陳雲は言う。「もしも彼らが我々と同じだとして、一律に賃金として30元(塊)、35元を得るなら、彼ら(小店舗)の経営積極性は大いに低下し、消費者には大きな不便をもたらすだろう」陳雲は公私合営以後、企業はもともとの生産と経営方法を、一定時期内、そのまま維持すべきだとも指摘している。以前よかったモノを辞めることを防ぐことができると。上述の談話の内容から、我々は陳雲が「仕事をしてもしなくても三十六元:仕事をしてもさぼっても月の賃金が三十六元」(做又三十六,不做又三十六)が積極的生産に不利であることを早くから知っていたことを理解できる。

新中国建国以後中国経済史

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