趙紫陽 拡大中央委員会での自己批判 1962/02
広東省委員会を代表して拡大中央工作会議広東組大会で趙紫陽同志が行った自己批判 1962年2月3日午後(蘆躍剛『趙紫陽傳』INK印刻文学出版2019年pp,415-416)
(広東)省委員会は討論の中で多くの同志が行った指摘にある「省委員会は広東の問題は重大でなかった、あるいはひどい驕りではないからといって、自己満足してならない」という意見に完全に同意する。この話は大変良い意見であり、省委の警鐘(警惕)となるものである。経験が我々に教えるところでは、わずかに好評でまったく警鐘がないところが転倒(筋斗)するのである。実際は省委員会の誤りも、最もひどかった幾つかの省ほどではないか重大だった。それは人民に対し責任を負った党の態度ではなかった。我々には全国の中でも突出した、幾つかの重大な誤りがあった。(それは)わが省区だけでなく、他の省区にも影響した。(またそれは)1958年下半期にはなはだしく、全国の中でも一定時期内では突出していた。たとえば、高い目標(を掲げたこと)。58年の晩収に1200斤の実現を提起したが、実際は大きな面積での豊収である2000斤3000斤にしたいとしたこと。第二、高い予測産量としたこと。700億斤の糧食を報告してしまったこと。第三高度密植としたこと。第五、種の植え付け面積を少なく、少ない種で収量を多く計画したこと。第五に三餐乾飯(ただ無駄飯を食ったこと。)第六に産量のごまかしへの反対(で失敗したこと:これは農民が指示された糧食を供出できなかった場合に、農民側が収量をごまかしているとしたもの。問題は密植などの効果が過大に見込まれ、目標収量が過大に設定されたことにある。確かに趙紫陽もその熱病の中にいた。)。
この六つの件は突出しており、高く掲げられ、反省は遅かった。58年下半期に虚飾は重大で、突出しており、高指標、高予測産量700億斤、少種高産多収、産量のごまかしへの反対など、すべて反省は遅かった。「四高」は主として私に責任があり、省委員会の主要同志の中で農業戦線に責任ある同志のなかでは、私だけが彼らに影響したので、彼らが私に影響したのではない。これらのいくつかの誤りは主として私の問題だ。皆さんは陶鋳同志と省委員会は農業問題で私の意見を尊重し、私が述べたところに従っていたことを知っているところだ。」
(このとき陶鋳は中南局第一書記兼広東省委員会第一書記。趙紫陽は広東省委員会第三書記。1965年に趙紫陽は広東省第一書記になる。)
#趙紫陽 #広東省
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