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劉少奇 マルクス主義と中国 1948/07(1921-1922年のロシア留学)

これは1948年7月1日に劉少奇が幹部会議で行った講話である。『劉少奇自述』国際文化出版公司, 2009年, pp.24-42 残念ながら共産党成立時の思想状況の分析は弱く、無政府主義の力が強かったことが分かるのみである。しかし1921年モスクワに向かう様子や、東方大学での学習についての記述は興味深い。

p.24 共産党が誕生する前、マルクス主義はすでに中国に伝来(伝到)していた。私は(共産党が誕生する1年前の)1920年にその種のパンフレットを見ている。その以前、社会主義、無政府主義について聞いた。その後、無政府主義のパンフに出会い(看到)、さらにマルクス主義のパンフに出会った。このほか、一つの最大の事情が加わった。それはロシアでの十月革命の勝利である。この革命は全世界で革命せねばならないと思うものの、出口を探し出せずにいる人々を皆驚きで目覚めさせた(驚醒了)。とくに中国では、我々は当時国を失い民族消滅する(亡國滅種)危険を感じるに至っていたが、どちらに向かって走ればよいか知らなかった(不曉得)が、ここに方法が見つかった(就有辦法了)。ロシアの10月革命の勝利と、世界での特に欧州無産階級の革命運動の発展、労働(工人)運動の発展、さらに加えて中国国内の「五四」新文化運動と愛国運動。このような情況のもと、中国の多くの先進分子はマルクス主義を研究し、多くのマルクス主義研究グループが結成された(当時は数人、十数人といったような組織である)。始まりは研究からだが、やがて連合して共産党が生み出された。1921年の第一次全国代表大会は、このような情況のもとで開会された。このような条件のもとでの共産党の誕生は偶然ではなく、必然的だった。中国共産党はマルクス主義と中国労働者運動の結合から必然的に生まれたものである。
 中国共産党は成立したその日から、中華民族、中国人民の完全な解放のため奮闘したが、前途は遠大であり、目標も遠大であり、ただ共産主義に向かうまでであった。当時党員の数は大変少なかったが、信心はとても深かった。目標が実現できないこと(不成立)ということがあろうか。できないことはない。始めは多くの人が共産党に反対し,阻止したいと思い、損壊(破壊)したいと思った。マルクス主義が中国に伝播した時、さまざまな社会主義も一緒にやってきた。私はさまざまな社会主義の書を見たことがある。最初の一時期は無政府主義がマルクス主義より歓迎された。とても多くの人が、あっという間に一挙に問題を解決できると思い込んで、無政府主義を信じた。マルクス主義と無政府主義は長時間弁論を交わした。共産党が成立する前、そして共産党が成立後も弁論は続いた。陳独秀はこの面で何篇かの優れた文章を書いている。結果として無政府主義は論駁され、そのほかの各派の社会主義思想も論駁された。マルクス主義はその足場を固め、中国無産階級思想界の中にその立場を得た。本当に多くの人が無政府主義を信じていたとき、彼らはマルクス主義に反対し、共産党に反対した。彼らは我々をマルクスの子供(馬子)、マルクスの孫(馬孫子 中国語の馬子には馬桶、つまり便座の意味あり つまり 大便座、小便座)と呼んで、我々を見れば罵り、すぐに争った。学生の間、労働者の間、群衆の間で、罵り喧嘩になった。思想上の闘争を通じ、組織上の闘争を通じて、マルクス主義は中国の先進革命思想界で指導的地位を得るようになった。こうして共産党の誕生が可能になった。当時多くの思想が共産党の成立誕生を阻止しようとした。革命の軍隊のそばにそれ(無政府主義)はあったが、それでも共産党は誕生した。帝国主義、買辦階級(帝国主義の手先となっている資産階級のこと)、封建軍閥は言うまでもないが、彼らは共産党にさらに反対し、かつ赤狩り(討赤)を進めた。それゆえ当時、共産党が誕生したのは、偶然ではなく、根拠があることで、各方面の歴史の要素によって生み出されたものだ。
 (共産党)第一次大会が開かれた後、全国各地で工作が始まり、党の建設が始められた。新聞を製作し、宣伝が行われた。湖南長沙には毛沢東同志がおり、上海、北京などにはほかの同志がいた。彼らは建党の組織工作を開始するとともに、労働(工人)運動を行った。
 中国に共産党の成立が宣告される前、社会主義青年団があるのみだった。私は1920年にまず社会主義青年団に加入し、1921年に入党した。私は党が成立する前に青年団によりソ連に送られた。私と任弼時は一緒に1921年春ウラジオストックに達した(当時ウラジオストックは日本兵と ロシアの白党に占拠されていた)  。そこから汽車に乗りモスクワまでまる3ケ月。汽車では石炭はなく木炭を燃やすしかなかった。木炭がないときは、汽車に乗っている人は山に行き、(木を?)背負って戻り汽車を動かすことができた。1921年夏(7月)、共産国際(コミンテルン)は第三次代表大会を開き、私は共産国際の寄宿舎に住んでいた。当時モスクワでは東方大学が作られ、我々は第一班として通学した。出国前、上海のロシア語学校で学生はロシア語の初歩を学んだ。出国前には中国共産党はまだ正式に成立してなかったが、いくつかの地方には共産党の小さな組織があり、上海共産党の発起グループは『共産党』という党刊行物を出版、のちに『向導』を出版した。つまり共産党は立党の計画が始まるや多方面の工作を始めていた。
 党は1922年に第二次代表大会を開き、一部の同志はモスクワから戻ってきた。西に行って経典をとり、わずか1年で戻ってきた。当時モスクワでの学習は甚だ容易でなかった。東方大学で8ケ月ロシア語を学んだが、能力が十分なく(蹩脚的很)、翻訳も質が悪かった。瞿秋白ともう一人が翻訳を担当したが、彼らの翻訳はほとんど理解できないものだった。(中略)このような情況下、東方大学で八ケ月学び急いで戻ってきた。教えを学んだとされているが、得たところは多くはない。当時学んだことは多くないが、我々自身の革命人生観は確定を始めた。組織上はいくつかのことを理解した、規律を重視すること(講規律)、仕事の配分で文句を言わないこと(分配工作不講價錢)、相互に批判すること、党には一切服従すること、これらの事柄は私の脳裏に深く刻まれた。(以下略)

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