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中華ソビエト共和国の内政 1931-34

 中華ソビエト共和国。昔、高校のときに配布された世界史の資料に、確かに「中華ソビエト共和国」の文字を見たけれど、世界史の先生は全く触れることがなく授業は終わった。南京に国民政府が存在していたその同じ時代に、中国共産党は、その根拠地で「中華ソビエト共和国」の成立を宣言したのだ。1931年11月のことである。
 いくつかの根拠地を合わせた面積は40余万平方キロメートル、人口は約3000万とされる。しかし国民党から繰り返し包囲攻撃を受けて、1934年10月に赤軍(紅軍)の主力は、この根拠地を離れ、いわゆる「長征」を開始する。結局、「中華ソビエト共和国」は短命に終わった。しかし、短命に終わったとはいえ、この「共和国」を通じて、見えた問題がある。それは中国共産党の統治の問題である。
 手元には以下がある。いずれも簡単な読み物であるが、とりあえずの資料として使ってみる。
 ①曾燿煇《中華蘇維埃共和國稅收史》江西人民出版社·2010年
    ②胡名義编著《赤囯保密  中華蘇維埃共和國時期的保密工作》金城出版社2012年
  ①は採用された税制を詳しく紹介している。共和国の収入の確保手段として、敵の資産であるとして没収したり、土豪から奪ったりは、一時的なやり方であって、政権を長期的に維持するには税収が重要だと最初に述べている。またソビエト共和国の税制の特徴は階級性にあるという。累進税の仕組みがはいったり、同じ条件でも、貧農は免税、富農には課税といった仕組みが、「階級性」の意味であろうと、ここでは推測しておく。
 このソビエト共和国で最初に財政部長を務めたのが鄧子恢(1896-1972),国家銀行の最初の行長を務めたのが毛沢東の弟の毛沢民(1896-1943) であることは承知していたが、①ではもう少し知識を加えることができる(以下は①pp.218-222を参照してまとめた)。
    財政部長の鄧子恢を補佐したのは李六如(1887-1973)。必要資金調達のため、土地税の引き上げや、紙幣や公債の増発を鄧子恢に献策したとされる。
 また、鄧子恢に続いて1933年に財政部長となったのは林伯渠(1886-1960)。この人は中国共産党創設者の一人で、1927年の南昌起義のあと、ソ連に学びに行き、1932年に帰国して、ソビエト共和国に加わった。鄧子恢は副部長に格下げ?になっている。
 毛沢民が中華ソビエト共和国臨時中央政府銀行行長になったのは1931年11月。この毛沢民を補佐したのは、曹菊如(1901-1981)。この人は、前年の1930年9月閩西工農銀行創設に参加した経験があった。前線部隊が得たもののなかに国民党の「収税四連単(4枚一組の納税記録であろうか?)」があった。これを毛沢民とともに研究して、銀行の金庫管理方法を制定したとのこと。また、財政、銀行、企業の管理知識に関する書籍、帳簿、手形、報告表等の収集を赤軍の政治部などに求め、参考にしたとされる。この人は、中華人民共和国成立後、中国人民銀行行長に上り詰めている。
    ②は毛沢民を助けたもう一人の人物、黄亚光(1901-1993)を紹介している。この人は日本への留学歴があり、閩西工農銀行にいたのを毛沢民が目を付けたとのこと。そして中華ソビエト共和国国家銀行発行の銀行券のデザインをした。1932年7月1日、中国共産党誕生11周年記念日に、銀行券は正式に発行された。この銀行券には偽造防止の印がつけられたというが、その反面、1932年3月末の戦闘で入手した銀行券印刷機を使って、民国貨幣の模造が大規模におこなわれたことも②は指摘している(②144-148)。
新中国建国以前中国金融史

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