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毛沢東的故事 (1) 1893-1910

黃暉 毛澤東遺物的故事 湖南人民出版社 2011より。まず驚かされるのは毛沢東のスロースタートである。西欧の事物に初めて触れたのがかなり遅かったこと。若いときに学校におらずに自学自習を続けたことも注目される。今回は1910年17歳までのところを訳出する。

( 1893年12月26日 23歳の青年毛順生の第三子毛沢東が生まれた。湖南湘潭xiang1tan2韶山shao2shan1冲上chongshang屋場的23歲的毛順生。毛順生は算盤が得意であった。両手でそれぞれ算盤をはじいたという。17歳のとき父毛恩普から六七畝のやせた田(薄田)と少なくない借金(一筆筆債務)とともに家のことを任された。)

pp.3-4  彼毛順生は長沙で兵隊をしたことがあり、小さな韶山にあって世間の事情に通じていた(見過大世面了)。彼は倹約してお金を作ると、籾米(稻穀)などを運んで売る商売を開始した。彼の商売は店舗を開かず、ただ現地の村人から籾米を買って、その後、町で商人に少し高く売るものだった。彼は買い付けの金で商売を拡大し、やがては20里も離れた銀田寺の数軒の店舗を持つまでになった。商売はますます盛んになり「毛義順堂」の名前で発行された手形が流通する(發行紙票周轉)までになった。あとからみると、毛順生はすでに単なる農民ではなく、彼はより多く商人の色彩を帯びている。彼が算盤に抜きんでていたことや、算盤の技能に卓越するとともに次第に彼の家を豊かにしたことは、湘潭韶山では伝説となっている。
→ ここで考えられる論点の一つは毛沢東の出自である。彼が生まれた時点で彼の家は、少なくとも貧農ではなく六七畝の田をもつ自作農であった。その後、父親は籾米等を売る商人になり次第に裕福になった。彼自身は学生であり、このあと青年になってから長沙の師範学校で学んだ。働く経験としては(後述する予定であるが)北京大学図書館で司書をし、長沙で小学校の教員をしているがそれらの期間は短く、ほどなく「革命家」になっている。その経歴は彼に独特のものだが、彼自身は肉体労働をして賃金を稼いだ経験はないといえよう。

(   毛順生にはすでに二人の男の子が生まれていたが二人とも当時の農村の医療衛生事情もあり夭折していた。そこで占ってもらったところ、長命の生娘(乾娘)を拝めば長生きできると。そこで子供が5歳になったとき(1898年)、龍潭坨山long2tan2tuo2shanの麓に、現地の人が石観音としてあがめ、1000年万年そびえたっている巨石を毛家の乾娘として拝むことになった。このことにより韶山冲上の人でその幼名 石三伢子shi2san1yaziがうまれた。彼の正式の名前毛澤東は、その後ずっとのちに全世界がよく知るところとなった。)

p.8  1902年 石三伢子は南岸の私塾に送られた。1902年から1910年の間、彼は前後6つの私塾で学んだ(1906年から1909年の夏は学ばず在宅した)。前にまさに述べたとおりであるが、毛順生が息子を勉強に送った目的は、息子が「計算ができ、記帳ができ、手紙をかけるように」ということであった。
妻の文素勤も同じような考え方であった。また石三伢子も父母を失望させることはなく、学習においてはすこし頑固で、いつも先生の罰を受けていたが、前後で六つの私塾を換わったが、すべての先生がこの子供は一度見れば忘れがたいほど(幾乎過目不忘)聡明さが勝っていることを認めざるを得なかった。塾の先生の鄒春培は、石三伢子をほめて「この学生には教えることを省くことができる」といったので、同窓生たちは石三伢子に先生いらず(省先生)というあだ名をつけた。13歳になったとき、彼の学習成果は父親として十分満足だったので、毛順生は息子を人生の正しい軌道を歩ませようと考えた。
 毛順生の見るところ、自分が歩んだ人生の道が、当然最も適切で最も正しい人生の正しい軌道である。すなわち、父親の指導のもと、13歳の石三伢子は小学堂を離れ、一日中ここで働いて生活する、ちょうど父親がこどものときそうだったように。石三伢子は一日全労力で働き、夜は家の中でただ一人の「読書人」の身分で、父親の記帳を手伝う。
 このとき石三伢子はすでに上屋場内部では算盤の新主人にすっかりなっているように見えた。毛順生夫婦は息子のために長い一生を考えて、息子に婚姻の約束をした。その娘は息子より4つ年上で息子を助け早々に家業を営む力があると。毛順生はさらに息子を米屋に学徒として送る手はずも整えた。将来、父の事業を受け継ぐに役立つように。そこは湘潭一帯(一家)と彼が商売をしている米屋だった。韶山冲の毛家の繁栄の道は引き続き美しく広がり、予想はほとんど現実となるようであった。

 毛順生が全く思いもしなかったが、彼の厳密な計算は破綻した。それはまさに読書(勉強)にあった。
 彼が息子を勉強にゆかせたのは、ただ息子が手紙が書け算盤記帳ができるようにということであった。しかし書籍は石三伢子に父母がいまだ触れたことがない知識の門を開いてしまった。
p.9  この大きな門は一度開くと、もはや閉じることができなかった。
   13歳の石三伢子は学堂を離れたものの、こっそりと(私下里)なお読書を続けた。儒教の古典(經書)を除く、彼がたどりつくことのできたおよそすべての書籍を飢えたように読みふけった。彼はいつも夜は、父親に灯火が見つからないように、部屋の戸を閉め切った。
 ちょうど父親が石三伢子を湘潭の米屋で学徒として送ろうと考えていたとき、父方の従兄(表兄)からとても新しいやり方の学堂、東山高等小学堂というものについて聞いた。この学堂は、儒教の古典をこれまでのように重視するのではなく、西欧の「新学」を比較的多く教えることができ、教学方法もとても革新的(激進的)だ。これはとても石三伢子の好みに会っていた。というのは彼はお経を読む小坊主のように頭を激しく振って(搖頭晃腦) 子曰くとか、詩に言うとか、暗唱することを嫌悪していたからだ。さらに重要な点はこの学堂が、まさに母方の祖母の家がある湘鄉縣にあることである。そこで彼は父親の反対を無視して(不顧)、そこで勉強することを決心した。
   石三伢子は母親の支持を得た。文素勤は、自分の実家の兄を息子のための説得(說情)に来てもらった。妻方のおじさんの話を聞き、新式教育を受けることは、息子のカネを稼ぐ能力(本領)を増やすこともできるというので、息子が続けて学ぶことに一貫して反対していた毛順生はついに折れた(松了口)。
  1910年秋、17歳まで田舎にいた伢子毛沢東は、初めて目も耳も閉じられた小さな山間(山溝)の韶山冲から初めて出て、新式学堂の大門に大きく踏み出した(邁進了)。人生で初めて、彼は自分の運命に対し重大な選択をした。
 まさにこの日から、そろばん玉を数えていた息子は、父母の思惑を次第に離れた。一つの全く新たな世界がすでに彼の前に広がっていた。
 彼が初めて聞いたのは光緒皇帝と慈禧大后がすでに死んでいるという重大ニュースだった。実際には光緒皇帝と慈禧大后すでに2年前に亡くなっていた。
    彼は初めて物理、化学そしてABCDに触れた。
    彼は世界にナポレオン、ピーター大帝、ルソー、リンカーンがいたことを知った。…米国と呼ばれる国家があることを知った。
 わずか5ケ月後、東山小学堂はもはや彼の人を驚かせる知識欲を満たせなくなった。石三伢子はさらに遠くに学びに行くことを選択した。今度は、家から離れること120里(*60km)に達した。 

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