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顧准伝略 陳敏之 1988年4月

顧准『從理想主義到經驗主義』光明日報出版社,2013年,pp.197-201(陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。)
   私の五番目の兄である顧准は1974年12月3日肺がんという不治の病を患い亡くなった。以来すでに14年が経った。時間が流れ去るとともに、家族を失った人の高ぶった感情も過去のものとなり、より多く理性的に考えるようになった。とはいえ彼の伝略を彼の家族として書くことになれば、少し感情が入ることは免れない。またこの分量として大きくはない伝略は、彼の一生の全面的評価を企図するものでもない。
 顧准は1915年7月1日(農歴5月19日)に上海のある子沢山の家庭に生まれた。兄弟姉妹。兄弟の中では五番目。母の実家には継子がいなかったので、幼いときから母の姓であった。原籍は蘇州。民国初年(1911年)に父は一家を連れて上海に転居した。父は晩年中国医を営んだ。家がとても貧しく、進学させることができなかったので、黄炎培が始めた中華職業学校旧制初中(学制2年)を1927年に卒業後、留雲小学母校教師殷業華の推薦、王志莘の紹介で潘序倫が創業した立信会計士事務所に練習生として就職した。
 1927年から1937年までの10年間はまさにわが国民族工商業がかなり発展した時期である。潘序倫は米国で学んで帰国してから国内に新式簿記ー現代会計学を移植した。それはわが国の伝統的な旧式簿記と全く異なった一種の新たな会計理論と方法であり、彼は科学原理の助けを得て、社会のさまざまな領域の経済活動に対して、その異なる類型の具体的な特徴に応じて、各種の異なる会計制度を設計し、体系的な記録、計算、分析、検査を進めた。それはわが国の伝統的旧式簿記に比べて正確性、迅速性、科学性において優れたところが多く、運用が開始されるや現代資本主義方式で経営されている新興の商工業者に広く歓迎された。この種の社会需要に適応していたことで、潘序倫の会計事業は立信会計士事務所から立信会計補習夜校に拡大し、以後、立信会計専科学校、立信会計編翻所、立信会計用品社などが創業された。当時多くの中小工商業に働く中小(企業)職員、練習生、学徒は業務知識を増やし社会地位を改善したいという切迫した要求をもっていた。このゆえにこの種の業務時間外の補習、臨機応変で多様な学習方式(の提供)は、彼らからあまねく歓迎されただけでなく、多くの企業経営者からの支持もえた。立信会計補習学校と会計事業はこの期間に劇的に発展したのである。
 1927年に顧准が立信会計士事務所の練習生になったのはまだわずか12歳のときだった。以後たゆまぬ努力学習により、次第に会計学という学問分野を学び掌握するに至った。しかし年齢はあまりに幼く、子供のようであったため以下のような笑い話がある。立信会計補習夜校で初めて講師として授業に臨んだとき(なお16歳であった)、学生たちによって引きずりおろされたと。その後1年を経て、2度目にようやく立つことができた。
 1927年から上海を離れる1940年まで、顧准は立信会計士事務所で前後14年働いた。彼はガリ版を切ったり、講義を印刷したり、テキストを修正したり、夜校に出向いて講義したり、夜校部の主任をしたり、会計学の著作を書き、之江と滬江など数ケ所の大学で兼任教授を務めた。彼自身の言い方ではこの時期は彼の職業向上時期であった。1934年彼は最初の会計学の著作『銀行会計』を完成したが、このときまだ19歳だった。以下『初級商業簿記教科書』『簿記初級階段』『株式有限会社(股份有限公司)会計』『中華銀行会計制度』『所得税原理と実務』『中華政府会計制度』などを陸続と出版した。これらの著作が世に問われたとき、あるものは顧准自身の名前で、またあるものは別人の名前で出版された。ここで言及することに意味があるのは顧准と潘序倫との関係である。1934年に顧准は革命活動に参加して以後、何度も流浪(流亡)を迫られた。潘序倫は顧准を一人の赤色危険分子としてみたりはしなかった。それどころか彼は顧准が立信会計士事務所を何度も出入りすることを容認する態度をとり、また秘密活動の職業方式に合わせて自宅で会計著作を執筆するなどの自由を与えることに同意した。国民党上海市党部が潘序倫に警告したあとも、何の措置もとらなかった。潘序倫は顧准の才能を愛し、勇気をもってその才能を用いた。彼は心の中で顧准を自己の会計事業の継承者と考えていた(潘序倫は晩年までそのように言っていた)、顧准の政治面がいかなるものかは問わず、開明的寛容的態度をとった。顧准と彼の家庭がそのおかげで獲得した比較的安定した生活条件は、30年代の旧世界において、本当に貴重で得難いものだった。
 (中略)
 1962年以後、会計研究に従事したほか、顧准は現代の国外著名理論著作の翻訳工作に専心した。現在すでに出版されている、シュンペーターの『資本主義、社会主義および民主主義』(書名絳楓)、ロビンソン夫人の『経済論文集』(二つの本はいずれも商務印書館の出版)。この二つの本の出版はいずれも文革以後であって、顧准は生前見ることはできなかった。
   文革の間,顧准はかつて広大な計画を立てた。準備に10年間をかけて、先に西欧それから中国の歴史を(哲学、政治、経済、文化史などを含めて)全般を比較徹底的に研究する。さきにまず心のおもむくまま見て回り、その後この基礎の上に歴史未来の探索を達成する。この計画を彼は実践した。1974年春、彼は手紙の中で私に伝えた。毎日低いが熱がある。また喀血している。しかしギリシア史の研究を続けるため、毎日冷えた饅頭数個を手に北京図書館に通い、閉館になると帰っている(每天只帶幾個冷饅頭上北京圖書館,一直到閉館才回去)。手紙の中でさらに次のように言う。1930年代の流浪から北京に至ったあとのあの生活にまた戻った思うとうれしいと。彼は冷峻な目で研究し、古代ギリシア、ローマの歴史を解析した。古代ギリシアがかつて到達した高度な文明と民主に感嘆の声を上げ、小国の林立や内戦の頻発に困惑し、『ギリシア史ノート』(のちに正式の出版時に『ギリシア都市国家(城邦)制度』と命名)を執筆を一度中断(卡殼)したほどである。しかし目もくらむばかりの(璀璨奪目)ギリシア文明はますます彼を引き付け、彼は西欧の歴史の発展を、マルクス主義の誕生そしてギリシア文明の関係をはじめ、さらに広く広範な歴史背景の中で考察し、多くの新たな見解を提起している。1972年から1974年の彼の生命の最後の2年、彼は私との通信において、現在この文集に集められたノート形式の論文を書き上げたのである。このノートは彼が書いたときには全く公開発表を考えていなかったものであり、当然、最後の正式成果ではない。(しかしもはや)その中にじっととどまることなく揺らめき続けている思想の輝きを覆い隠すことはない。
                        1988年4月15日

資料 1992年の出版追記(1989年のあの事件により出版の予定が遅れたことが書かれている)

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