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『理想主義から現実主義へ』陳敏之序文(1988年8月)

『顧准文集』民主與建設出版社, 2015年   pp.154-156より 陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。 
 この本は顧准と私が1973年と1974年の2年間に通信中に行った学術討論をまとめたものである。顧准は私に学術的なメモ(筆記)の形に書くことを求めた。1965年末に顧准が房山監督労働から北京に戻ってから、私と彼の通信は中断していた。1967年11月から私自身も自由を失い、以後数年は互いに生死もわからなかった。1972年10月私は許しを得て私の妹の下に住み多年会っていない老いた母の様子を見に北京に向かった。実際のところ、はっきり話し許可を得ることは都合の悪いもう一つの重要な目的があった。それは私の五番目の兄である顧准を所在を尋ねることだった。このとき私はすでに彼が身一つに(煢然一身)文字通り家族と死に別れた身(寡人)になったことを知っていた(1965年以後、彼は私に書き送った手紙の中で、自らを「飼い主が死んでしまった犬(喪家之犬)」だと卑下している)。私は気持ちの上でも道義の上でも彼に関心を払うのが自身の責任(不可推脫的責任)だと感じていた。老いた母はただ心の中で黙って顧准を思うほかはなく、続けて気にかけようにも、明らかにすでにその力はなかった。別れて10年近く今回出会ったときの情景は忘れがたい。(1972年)10月末のある日、私と妻が突然彼に会いに行ったとき、彼は頭上に白い布を折ったものを帽子としてかぶり、その様子はすこし滑稽だったが、ちょうど炉端で読書をしていた。大きな部屋に4人。互いに書架で隔てられ、室内は物音一つしない。災難を経ての再会は、気持ちの高ぶりを抑えられず、喜びと悲しみに満ちたものだった。このあと、(北京と上海)二つの地点の間の連絡は、彼が死ぬときまで止むことはなかった。長い間が空くことはなく、その熱烈さはちょうど恋愛中の恋人のようだった。一種の暗黙の約束は、手紙を受け取ったら、ともかく急いで返事を書くことであった。何か書いたらすぐに投函するが、内容は学術討論であった。少し書くと言ったが、1-2万字あるいはさらに長く、数日のうちにすぐ返信がきた。(たとえば)『鐙と封建主義』の訳文と評注は、私の記憶では1973年5月1日1日で完成したと手紙に書かれていたものだった。ノート(筆記)はリスクを冒して保存されているが、手紙はすべて処分された。
   1972年から1974年というのは、ちょうどわが国の現代史上、最も暗い時代だった。歴史はまさにくだり坂(滑坡)で一時は底も見えなかった。人民大衆はただひっそりと国家の運命を憂うしかなかった。しかし顧准は、冷徹な眼光をもって、誠実な態度で現代史に対し、新たな探索を行なった。「歴史の探索は、人類に奉仕する志を立てた人にすれば、すべて直面する現実を改革し未来の方向を企画することに役立つ。」(引用は自著より、以下同じ)。これがすなわち顧准が歴史探索を進めメモを書き留めた主旨である。
 (中略)
   顧准がこの世を去って14年の時が流れた。顧准は生前、わが国歴史上の暗黒時代の終息を、自ら現代にみることはできなかった。当然、我々が現在経験しているすべてのことを経験していない。顧准の一生は、我々この時代の悲劇の典型的な一つの縮図(縮印)であり、彼個人にとり不幸(なもの)であった(このような運命の人に出会った人は、なんとしてもこうした悲劇の再演されてはならないと信ずる(ことだろう))。しかしこれらのメモは、現在ついにこの世に公になることができ、幸運だった。というのも顧准がこのメモを書いていたとき、これの出版が可能になるとは思いもしなかったからである。この原稿を提出するにあたり、何度も読み返して兄のこの遺著をさする時、(私の)辛さと悲しみは(出版で)十分なぐさめを得たことを感じた。地下の兄にも知らせが届き、微笑んでくれればと思う。
                        1988年8月29日夜
(陳敏之の1988年8月付け序文である。近々に出版予定であったことが分かる。しかし1989年春の良く知られている事件が発生したことで、このときの中国国内での顧准の遺著『理想主義から経験主義へ』の出版はとん挫する。この遺著はさらに3年後の1992年に、いくつかの重要な箇所を省いた形で香港でようやく出版される)

#顧准 #陳敏之



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