四川での趙紫陽 1975-1980
1975年に趙紫陽は広東から四川に入った。ここで5年の治世を経験し、1980年に党のトップに躍り出る。趙が四川にはいったとき、四川の人口は9000万を超えていた。重慶市(10.3万平方キロ)が直轄市として分離される(1997年)前、四川の面積約57万平方キロは日本の1.5倍である。省のなかでは最大の大きさである。趙紫陽は1980年2月に中共中央政治局常任委員となる。8人に常任委員のなかで最下位だが。3月に中央財政経済領導小組が設けられその組長に就任。4月には国務院副総理となり、華国鋒総理のもとで経済工作の指導(領導)を担当。さらに9月には華国鋒に代わり、国務院総理に就任。事実上内政トップに上り詰めた。
(以下 盧躍剛《趙紫陽傳》INK印刻文学雑誌出版2019年を基本的によみながらまとめたが、この本は極めて使いにくいことを改めて指摘しておく。文章や事実が編年体で整理されておらず、読み取るのは大変。)
ところで趙紫陽が、総理に上り詰めたことについて、いろいろな評価が可能だろうが、内蒙古、広東、そして四川とそれぞれ問題がある行政区での治世が、評価されたことは間違いない。同時期に総書記に上り詰めた胡耀邦に比べて、行政の指導者としての経験は圧倒的である。
趙紫陽が四川にはいったとき、四川で何が起きていたのか。1952年に李井泉(1909-1989)を主席、李大章を副主席とする四川人民政府が成立。この二人の主導権争いがそれ以来続いていた。1965年に李井泉を四川省委第一書記、その後文革が始まると、李大章は造反派と組んで、李井泉批判を仕組んだとされる。その争いのなかで李井泉夫人は批判を受け、虐殺されている。では李井泉が単に被害者かというと、1950年代末の大躍進政策のとき、極左政策をとり、それがその後、1000万ともいわれる大量の餓死者を生んだ大飢饉をもたらした責任があるという。この四川に趙紫陽が入ったのは1975年10月。革命委員会副主任として実質的に四川の内政を抑えていた李大章(1900-1976)が、中共中央統一戦線部部長に抜擢された(1975年7月)ことなど、四川幹部の入れ替えに伴うものである。なお、李大章は75歳の高齢で着任間もなく亡くなっている。
付言しておきたいのは、この李井泉が文革によって打倒され、李大章が実質的に四川の内政を抑えた四川のケースでは、地方である意味、好き放題の王国を作っていた人物が打倒されて、旧悪を暴かれる側面が文革にあったことが分かることである。文革の暴力はもちろん肯定できないし、その結果として政治が良くなったともいえないかもしれないが、李井泉批判については、正当な批判も含まれていた印象が強い。つまりこのようなケースでは、文革の造反派(文革で権力を握った李大章の側)が悪者だとは必ずしもいえない。造反が起きる土壌が社会自体にあったといえる。
1975年10月、広東から一度北京に入った趙紫陽は、大寨に学ぶ全国会議が北京で行われていたところに出席。そこで四川から来た人々と初めて面会している。先ほどのべたように四川では1958年から62年、5年におよぶ大飢饉が発生した。餓死者1000万とされている。実はその同じ時期、李井泉を指導者とする四川省は大量の穀物を国家に供出している。つまり李井泉は省民を飢餓に落とした責任がある。この人物は文革で一度は失権したが、その後、毛沢東の指示で復権している。死後(1989年)、中国共産党は優秀党員として顕彰している。李井泉の責任を追及せず、優秀党員とした毛沢東や中国共産党の考え方には疑問が残る。
省民が飢えで大量死するなかでの穀物の供出を貢献と見る考え方は冷酷であるが、これと似た話は大躍進―大飢饉のとき、ほかの地域でも起きている。いずれにせよ、こうしたことがあった四川の民心が荒れていたことは想像できる。1975年から76年にかけては、四川の天気は不順であり、76年にはかなり大規模な地震があった。
趙紫陽が四川にくだったとき、四川の最大の問題は、長年の悪政で荒れた民心をつかんで、農業生産を回復することだった。当時、全省の半数以上の農家が半飢餓状態にあるといわれていた。
p.649 趙紫陽は四川に入ってから一つの方針を提起した。農民を休養休息させよ。最初の重大措置は、社員救命食糧最低線を決めることだ。食糧を買上げすぎてはいけない。かれは四川に入って1ケ月あまり旱魃救済と省事情把握のため、東西さらに南と、十余りの県を歩いた。雅安から楽山に行く車のなかで、彼は言った。「私は南方工作時間がとても長かった、また北でも少し過ごした。比較して四川の農民は特に勤勉だ。一人あたり耕地面積は少し少ないが、農民の耕作への気配りの程度は高い。また田畑の端までことごとく利用されて(見縫插針)すべて植え尽くされている(種滿種盡)どうして腹いっぱい食べられないことがあるだろうか?」焦る気持ちがその顔に現れた。
p.650 1975年11月8日、趙は四川省委員会常任委員会を招集した。旱魃からの救済を検討する会議で、災害区の食料に事欠く農民について、退庫は一人300斤(市斤 以下同じ)、返銷を一人毎年280斤と計算。食糧に事欠く間は一人に毎月24斤と23斤毎月実施する。二つの重要概念に注意してほしい。食糧に事欠く農民は二つに分類される。一類は「退庫」であり、「退庫糧」をすぐ食べる農民である。第二類は「返銷」を食べる農民のことである。
「退庫糧」、これは生産隊が国家の徴収購入指標が国庫に入ったあと、農民の救命糧として必ず返される(還給)農民の救民糧である。「返銷糧」は、国家が貧困地区とか自然災害区に食料に事欠く農村、農民、あるいは食糧を取り過ぎた時に売り戻される(銷給)農村農民の食糧(糧食)である。(中略)
p.650 趙が四川に入る前、(李大章たちは)災害による減産を考慮せず、収穫前に定めた購入指標で大量に生存線を越えて糧食を強制的に買い上げた。自然災害の減産に加え生存線を越えての買上げで、四川の人々の命は危険にさらされた。退庫糧も返銷糧もすべてだされてしまい、ただ不足があるのみ。四川域内にはすでに供する食糧がなかった。趙はここで重大決定を行い中央に支持を求めた。四川の外から災害救済の食糧を調達する。権威ある資料が示すところでは、趙は総数で50.2万トン、市斤に換算して約10億斤の食糧を四川に調達した。同時に買上げの任務を減らす措置をとった。
(同様の対応は1978-79年にもとられている。ここは推測が入るが、こうした措置が可能であったのは、中共中央にも、大量の餓死者を出した四川の事情がすでに報告され、餓死者をさらに出さない政策が中央からも支持されていたからだと考えられる。)
趙紫陽が四川で何を行ったか。以下蔡文彬を読むと、農民に強制や命令することを避け、農民の自発的選択を尊重したことが伺える。作付けの仕方、作付けする作物の選択。背景には場所場所で適切な仕方や、作物があるのに、場所をかまわず年間、二毛作を強制、かつ稲作を強制するやり方が結果として、収量の減少(農民の側の損失)につながった問題があった。これに対して強制でなく農民の選択に任せることで、農業の進め方について自主権を農民に返すことで、収量はかえって増加したということである。つまり、農民たちに経営自主権を返すことで、生産性の回復が実現したことが理解される。そしてここに経済の進め方について、実際に事業を営んでいる側に自主権を与え、選択を任せることで、生産性が改善されるという、経済運営についての本質的な考え方の転換が潜んでいるように考えられる。
蔡文彬《親歷趙紫陽改革道路的四川起點》載《趙紫陽的道路》晨鍾書局2011年,pp.43-100,esp.45-50
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