双軌制導入から闖關まで 1984-1988
標記について利羅力《沉重的輝煌 告訴你一個真實的改革開放》中國財政經濟出版社2009年第八章pp.182-213はかなり詳細に記述している。まずこの本の記述からこの問題の経緯をまとめてみる。
価格双軌制は1984年9月に浙江省徳清県の莫干山で開かれた全国中青年経済科学工作者討論会で支持された考え方。この会議の中心人物である王岐山は中央農村政研室所属。このほか参加者には政府の重要部門で働いている人が少なくなかった。
会議では3つの主張が出された。一つは国務院価格研究センターの田源に代表される、(市場)価格を調(整役)に使おうというもの。もう一つは張維迎に代表される自由化(放)というもの。そして中国社会科学院卒業生の何家成に代表される価格双軌制の主張である。田源の主張は、保守的に過ぎると考えられ、張維迎は結局望む速さでは実現できず改革の失敗につながるとされ、多くの人が価格双軌制を支持した。この会議の結果は、除景安により『価格改革の二種類の考え方(价格改革的两种思路)』として中央指導部に提出され、趙紫陽もこの報告を刺激的だ(很开脑筋)と評価した。
実際にはすでに価格自由化が進み始めていた。1984年5月に工業品価格は20%の変動を認められるようになった。一部の小企業、石炭産業の郷鎮小企業は20%の制限を無視しており、高価格は増産を刺激し、生産過剰が市場価格下落につながるなどの現象がすでに生じていた。それゆえ計画外の製品価格を自由化する双軌制こそ、指導部が受け入れられる政策だった。
1985年3月国務院は生産資料の計画外価格の自由化(放开)を求めたが、これは後に双軌制発動の合図とされる。
双軌制導入の背景には1979年から84年にかけて進められた価格改革の挫折があった。中国ではかねて、工業品の価格に比べて農産品の価格が低すぎて農業生産の発展が進まないとか、エネルギーや原材料の価格が低すぎて、それらが不足するなどの問題が知られていた。79年から84年にかけて、こうした価格の調整が進められたが、いろいろ調整を重ねると、もとの不合理の状態が再現したほか、たくさんある商品の価格を常に合理的に調整することは困難だった。こうした経験が莫干山会議につながった。
双軌制は中国の市場化の方法は漸進的とされることと重ねて理解されることがある。しかし半面では、とくに吳敬璉が、国有企業の改革の遅れと双軌制が重なることで腐敗を生み出す原因になったということを強調しているように導入当初から批判の対象になったことが知られている。
双軌制について気になる問題は、1988年に指導部は価格の一斉自由化(價格闖關)を進めようとして失敗した件だ。どうも鄧小平自身そして趙紫陽自身も、この価格改革を急いでいた節も伺える。この年4月に国務院が、豚肉、卵、砂糖、野菜の副食品価格ついての住民の給与への補填(補給居民)と、これらの価格の自由化を決めたところ、これらの価格が急騰した。また7月にブランド品のたばこや酒の価格を自由化したところ、価格が急騰した。(こうしたある意味で、価格自由化が物価高騰につながる「警報」がでていたのに、)8月価格の一斉自由化が間もなく開始されるとの談話が発表された。その結果、預金の引き出し、日用品買いだめが全国で生じた。8月末国務院常務会は、価格の一斉自由化は5年あるいはもっと長い時間をかけて完成すると決定。物価上昇に応じた金利の引き上げ、インフラ投資規模の縮小なども決定した。これら一連の措置(とくに事実上の価格自由化時期の延期と金利引き上げ)によって、事態はようやく収まることになった。これが有名な価格の一斉自由化(價格闖關)の失敗である。
吳敬璉は当時の指導部が「通貨膨張無害論」に影響されて、通貨膨張が進む中で(通貨を収縮しないで)価格の一斉自由化を進めたことに、1988年の価格自由化(闖關)失敗の原因を求めている(吳敬璉 馬囯川《重啓改革議程》中和出版2013年pp.215-218)。趙紫陽は、預金引き出しの原因は国民が預金価値の低下を心配したことにあり、預金金利を引き上げればよかったが、自分たちには預金に配慮する経験が不足していたとしている(趙紫陽《國家的囚人》時報出版2009年第28章-第30章)。ただ問題は趙紫陽ものべているように、価格自由化の失敗により、改革に批判的な人々の勢いが増し改革全体にブレーキがかかったことだろう。
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