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ターミナルケア

 父が亡くなったのは2009年だから、父が亡くなって15年の歳月が流れた。前年の2008年11月の末頃、父と市民病院に行き、医者の説明を聞いた。そのとき父は87歳半ば。春先から食欲不振で急激にやせていた。複数の町医者を経ての市民病院での診断は、6-7cmに肥大化した肝臓ガンの腫瘍と慢性化した間質性肺炎があり、いずれも治療困難との説明。今後体力が落ちてゆくと。その説明を父と二人で淡々と聞いた。
 翌年になり、父の衰弱が目立つようになった。そこで外出の大変さを考えて、往診の医者を取り、定期的に往診の依頼をしようとしたところ、父はその金を無駄と思ったのか、猛烈に怒った。往診の医者を見送りながら、割り切れないものを感じた。
 いずれにせよ自宅では介護できなくなると考え、頭に浮かんだのはターミナルケア病棟のある病院を探すことだった。市民病院で治療は無理と言われたことから、その選択しか思い浮かばなかった。満床で順番待ちだったが、3月半ばだったが、入れるとの連絡が病院からあった。
 実は3月末で私は職場に復帰せねばならなかったので、この連絡はありがたかった。ただせっかくなので、自宅を離れる日を1日刻みで遅らせた。できるだけ父の在宅の時間を増やそうと考えた。
 出立の日、病院までの体力のロスをさけるため、救急車仕様のタクシーをとった。家内の配慮であった。病院ではたまたま観桜会をやっており、父は車椅子でそれに参加した。そこまで順調なはずだった。
 ところが病室に入ったところで、父は救急車に載せられたことに怒りを爆発させた。父のロジックは、これではよくなるものもよくならない、というものだった。実際には歩けないが、歩いて入院するつもりでいたのだろう。また父は入院は回復のためと考えていたのだった。家内と直立したまま、父の怒りを、聞きながら、半年間、仕事を休んで枕を並べて父と過ごした日を思いながら、父から気持ちがすこしずつ離れていった。正直もういいと思った。
 当時、私は父の病院を探しながら並行して、母の老人ホームを探していた。病院の位置と、老人ホームの位置をあまり離さないとすると、選択の幅はそれほどなかった。たまたま新設の老人ホームがあり、見晴らしのよい部屋を確保できた。職場への復帰を控えて、認知症の母を老人ホームに入れ、併せて父を病院へ入れる。なんとかこの二つの懸案を終えたところでの父の叱責に、怒る元気もなく、ただ父から気持ちが離れるばかりだった。
 ところでターミナルケア。その意味を終末期のガンの痛みを緩和する程度に私は理解していた。ただその私の理解は間違っていた。重要な要素はむしろ積極的に治療をしないことにあった。あるいは言い換えると、死に至るプロセスを歩ませるということにあった。
 入院後しばらくして、父は、治療回復のプロセスを求め始めた。そもそも市民病院で治療の道がないとの説明を父も聞いているのだが、もともと医者の説明は半分しか信じていない人だったから、方法を講じれば治ると考えていたのだろう。ただ正直、だからといってどうしようもなく手に余った。
 やがてターミナルケアの怖い面が現われた。嚥下障害のリスクがあり、誤嚥により誤嚥性肺炎になるリスクがある、また今の段階となってはがん細胞に栄養を与えるだけとなる。といった理由で、食事を止められたのだ。この医者の説明は頭では理解できるのだが、私の気持ちは複雑だった。ターミナルケアとは死に至る場所だということを改めて学んだ。
 老衰によって物が食べられなくなり、食べないことで人は穏やかに死を迎えると本には書いてある。とはいえ、その状態を医療機関が作り出すことには、矛盾を感じる。その疑問は今も残る。そして入院後1ケ月余りして、父は亡くなった。満88歳直前だった。そのとき始めて、ターミナルケアで順番待ちをして、順番が来たことの意味を悟った。人が亡くなったから、あの順番が来たのだった。
 以上は15年前のことで、今はまた事情は違うかもしれないけれど、ターミナルケアを使うしかあの時は思いつかなかった。しかしターミナルケアではなく、父とともに必死に回復の道を探れば、それが徒労でも父は喜んだのかもしれない。しかしあのときは、そのことを考える気持ちの余裕がなかった。などと取返しのつかないことを今も時々考える。


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福光 寛  中国経済思想摘記
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