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駒込富士神社

 天正元年1573年に地元の名主によって、現在の東京大学のところに浅間神社が勧請された。その後、そこに寛永六年1629年に加賀前田藩の上屋敷が置かれることになり、こちらの塚の上に遷座されたという。この塚は前方後円墳だという説があるが、確かに登ってみると、それらしい形状になっている。
 なお都区内で前方後円墳として確定しているものとして以下が知られる。
  摺鉢山古墳(台東区上野公園)
  芝丸山古墳(港区芝公園)
  宝来山古墳(大田区多摩川台公園)
  亀甲山古墳(大田区多摩川台公園)
 また、古墳が富士塚の扱いになったものとしては、文京区の白山神社の円墳の事例がある。古墳が富士塚になったのは、ここだけではないようだ。
 塚を守るように建てられている灯篭は元禄十五年1702年とあり、実はふるいもの。神社入り口の鳥居は享和二年1802年との刻印がある。現在は訪れる人もまばらで、冨士講も衰退し、荒れているように見える。塚を取り囲んでいる石碑の中で最も古く思えたものを以下に上げて置く。右側に寛永×拾七×天(1640年の意味と解釈 なお寛永は20年まで)左側に康辰(十七の意味)三月九日とある。これを遷座したときの石碑と推定した。
 都区内に多く残る富士講―富士塚の遺構の一つだが、気になる点がある。ひとつはほかの富士塚よりこの富士塚が別して古いことである。富士塚wikipedea によると有名な都内の富士塚は19世紀に入ってからの築造。Wikipediaの解説は、安永9年1780年に高田水稲荷に作られたもの(現在の早稲田大学9号館あたり)が、最古の富士塚だとしている。対して駒込富士の歴史は17世紀にさかのぼる。17世紀とすると富士信仰の祖とされる長谷川角行1541-1646が活動した時代と重なる。この「通説」と駒込富士との関係はどう整理すれば、良いのだろうか?
 富士講ブームに火をつけたのは食行身禄ジキギョウミロク1671-1733が享保18年1733年に富士山で断食の末に亡くなったことだとされるが、身禄は駒込出身である。ということは身禄はこの駒込富士とかかわりがあったのではないか。まとめていえば、富士講,富士塚がブーム化する前、駒込富士は先行して富士信仰を表す場所だったのではないか?というのが私の仮説である。
 アクセス 南北線本駒込から徒歩9分。文京区駒込
 参照 富士浅間神社HP 富士講、長谷川角行、食行身禄のことなどが詳しく紹介されている。


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以下に紹介されている富士塚の写真は美しいので少し驚いた。


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