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王復興「文革中の心の歩み(上)」2018

訳出の対象は王復興「我的文革心路歴程」『中外学者談文革』中文大学出版社2018年pp.305-316  これを2回に分けて訳出する。今回はpp.305-309まで。著者は1965年に北京四中高中を卒業、同年北京大学歴史系に進学。在学中に文化革命を経験。現在は米国在住の民間文革研究者。
1940年代、王復興のお父さんは米国で中国共産党の政策を宣伝する新聞を発行するというかなり特殊な仕事をしていた。そのお父さんが1957年の反右派闘争で右派とされ、以降、著者の家族は鬱屈した生活を続けた情況で、文革を迎えた。

p.305   私は1965年に北京四中高中を卒業、北京大学歴史系に合格入学した。1年経とうとしたところで、文化大革命が爆発し、3年9ケ月の風雨を経験した。

      一 成長時期に吸収した栄養
 文革が爆発し、私は極大の熱情をもって運動に身を投じた。当時社会に充満(充斥)し、教育の中を貫いていた(贯穿)理念は、階級、矛盾、階級闘争、修正主義に反対し修正主義を防ぐ、無産階級専制、すべてのものには二つの面がある(一分为二),不断革命、世界革命、革命事業を引き継ぐ人になる、工農兵と互いに結合する、共産主義の遠大な理想を始める(樹立)、偉大な領袖毛主席と固くともに、など既に文革前に深く脳裡に入っていた、その中でもっとも影響が深かったのは階級と階級闘争の理論だった。
 これらの観念はすでに高中段階で次第に形成された。北京四中の時、政治学習を通じて、反修「九評」(すなわち中共中央がソ連共産党中央を評した九編の修正主義を批判した文章)学習を通じて、「四清」運動の伝達さらに農村の階級闘争形勢の宣伝講義、さらには当時日々閲読した新聞紙上の上層建築(訳注 経済の基礎を下層、その上の政治、法律、哲学、宗教、芸術などを上層と呼んだ。)領域革命大批判の文章により、階級闘争観念は不断に強化され、私の世界観と人生観をつくった。
  あの時代(那个年代)、共産主義青年団に入れるかどうかは青年が優秀かそうでないかの指標(評誌)であり、入団していれば尊敬(尊厳)された。実際問題としては、家庭出身が良くない学生が団員でなければ、高考の「政治審査」の関門を通ることはとてもむつかしく、大学に合格することもできなかった。家庭出身問題のため、私の入団は
p.306   とても難しい流れ(過程)になった。団支部の班で私の入団申請が決まったあと、すごく長い時間が経っても上級から批准が戻らなかった。私は団支書に問い合わさざるを得ず、彼は私を学校の団委員会書記の趙先生に会いに行かせた。その後、趙先生は西城区団委員会書記が私と話す必要があると言った。私はきっと私の家庭問題だと推測した。私は学校で学生登記表「家庭成分」の欄は「職員」であった、当時の標準によれば紅でも黒でもなかった、しかし私は心の中で家庭の政治問題だと知った。
   1940年代、父の王福時は米国のサンフランシスコで中国語新聞『中西日報』の編集を担当し、家族全員がサンフランシスコに住んでいた。父親は毎日夜、自宅で『遠東通訊』を印刷発行していた。『遠東通訊』は中国香港の地下党新聞機構「国新社」の委託を受けて、米国で発行され、併せて「国新社」が原稿を提供していたもので、米国で中共政策を宣伝、解放戦争の進展を報道、評論を発表していた。「国新社」の指導者である喬冠華、劉尊棋らと連携は頻繁だった。
 1950年6月、父は一家全員で帰国し、国務院国際新聞局出版発行所副所長に任命された。1952年に国際書店に配属され、輸出部、輸入部の副主任に前後して任命された。かつて母は私に話したことがある。「あなたのお父さんはあの時、とても左傾だった」。左傾は中共を擁護することで、当時大部分の知識分子の状態だった。彼らは国民党の汚職や腐敗をとても憎み、一党専制、個人独裁反対、民主自由を力で取ろうとする共産党、に共感(同情)、指示した。
 1957年の整風反右の時期、父は党の「大鳴大放」のスローガンに応じて、1957年8月『文芸報』上「国際書店は橋かあるは壁か?」と題した文章を発表した。(そこで)国際書店は大量にソ連の雑誌新聞、書籍を輸入しているが、欧米国家のものは極めて少ない、とくに西欧の科学技術の新聞雑誌と書籍が少ないとして、国際書店は対外交流の中で「橋」とならずに「壁」となっていると批評した。(この)文章は大きな災いを引き起こした。父親と『文芸報』輪番主編の肅乾は同時に右派とされた。1957年10月6日の『人民日報』は最初の版刊で右派王福時を名前を挙げて「資本主義経営路線を一貫して堅持した」と批判した。父は職場(単位)で大会、小会で批判を受けた。私は新聞紙上で父を批判する文章を見たあと、とても苦悩した。父が反党反社会主義で、悪い人だと信じたわけではないが。しかし入団を勝ち取るためには、家庭で明確に区分を分ける(划清界限)必要がある。天の道理があるところ、人の気持ちは抑えて(存天理,滅人欲)、小資産階級の「温情主義」を克服すべきである。
 あの日私は不安な気持ちを抱えて西城区の団委員会に着いた。団委員会書記は家庭の認識について私と話す必要があった。私は父が1957年に発表した文章を批判した。父の資本主義経営路線の堅持は、実際上は西欧の民主と自由へのあこがれ(向往)に過ぎない。私は父が家の中で友人たちと中ソ論戦を論じていることを暴露した。そして父はソ連共産党の「人道社会主義」という言い方(提法)が好きなのだ(欣賞)と暴露した。私は
p.307   父をヒューマニズム(人性論)が好きであることは、修正主義思想であり、立場上問題があると批判し、さらに父が困難な時期に子供達が食べれないことを恐れて、自転車で郊外に行き農家の裏手で大量の白菜を買ったことを暴露した。これは困難な時期に形勢を悲観し、党に不満があったことを証明(説明)すると。私は自身は資産階級の家庭に背反して、無産階級の側に立つと表明した。区団委員会書記は、私の重大な批判にとても満足した。数日後、私の団員資格は順調に批准された。
 私はこの知らせを受けて、一面で喜び光栄に感じた。父の立場や観点には問題があり、彼とは線を引くべきだと、考えた。同時に不安も感じた。つまるところ自分は本心に反して(违心地)父の問題を原則問題に引き上げた(上纲上线)のではないか。しかしそうしなければ関所は通れず、団には入れず、大学に入学もできなかった。入団後、私は父と話すことはとても少なく、父子で深く話さなかった。1967年のある日、妹が父を連れて北京大学に壁新聞を見に来て、そのついでに私と会った。私はその時ちょうど壁新聞の下で同窓と雑談していた。妹はやってきてわたしに挨拶し、壁新聞近くの父を指さして「パパも来ました」と言った。私は一瞥してすぐにその場を離れ、挨拶に行かなかった、同窓生の私への見方が変わることを恐れたのだ。
 我々兄弟姉妹は自身の将来が父に影響されたことに皆怒りを抑えていた。父の右派の身分の影響が最も大きかったのは弟の王復光で、私はかれの1歳上で同時に進学した。小さい時から一緒に遊び、読書、運動、親しいことこの上ない兄弟だった。彼は勉強はとてもできたが、入団しなかった。父の問題のため、大学に合格しなかった。私の励ましの下、彼は文革の前に下放(上山下海)し、海南島の興隆華僑農場で農業に従事した。成績が優秀だとして何度も表彰された。1968年8月の早朝、華僑の知識青年が組織した群衆組織の宿舎区が対立派により武装包囲された。復光は軍管会の門をたたきに走って、彼らに武闘の制止を求めようとした。大門は固く閉ざされ、誰も返答しない。復光が走って戻ろうとした時、背後で銃声がして、彼はその場に倒れて亡くなった。発砲したのは農場の民兵隊長郭際標(訳注 取り囲んだ側も武装している緊張状態だとすれば軍管会側は銃を構えて居る状態。王復光を襲撃側と誤認して発砲したのではないか。)。弟の死後、農場の拡声器は繰りかえし、「狗崽子王复光被打死了!(訳注 この言い方は王復光に十分な敬意があるように思えない。狗崽子は犬の子供、番犬といった意味。このような扱いからも王復心の死が無駄死に思える)」と放送した。復光の遭難は私には悲痛このうえなく、私の心は永遠に癒えることがない。

         二 暴風雨に身を投じる
 1966年6月1日夜、中央放送局は、毛沢東が作ったとされる「全国で最初のマルクス=レーニン主義壁新聞」全文を放送した。6月2日『人民日報』は全文を掲載し、あわせて
p.308   「北京大学の最初の壁新聞に歓呼」という評論員の文章を発表した。北京大学は当時、皆が喜びで沸き立っており(万众欢腾)狂風暴雨が近寄っていた。このあと学校は授業を停止し、先生と学生は日々壁新聞を書き、批判会を開いた。6月2日から開始された、北京市で毎日すべての各大学専門院校、各中学、機関単位数万人が北京大学に壁新聞を見に来て、座談会を開催した。数日後同窓生たちの間に広く伝わった。毛主席は、康生に中央放送局、人民日報において、北京大学で最初の壁新聞が張り出されたことを報道するときに、「北京大学というこの反動の堡塁は今後打破できる」と書面で指示して(批示)人を驚かせた。五四時期「科学と民主」の陣地が、どうして新たな時代においては「反動の堡塁」になるのか?とても不可思議だ。私は思想を反省、情勢(形勢)に追い付いていない自身を批判した。この革命を理解するには努力が必要だった。 
 私は当時思った。この革命大時代に出会って、偉大な導師毛主席と固くともにいなければならない。革命の大きな流れの火熱に身を投じて、自身を良く鍛錬せねばならない、確固とした革命派となり、自身の青春価値を実現するのだと。多年心のうちに深く隠してきた恐怖感もまた運動に自身を積極的に投入する動力になった。6月初め、工作組が歴史系五年級の四学生を反動学生とするのを見て、私は父が1957年に右派だったことを連想した。休むことなく自身警戒し、運動で表現が積極的でなければとすれば、落後分子とされることはない、父のように誤った立場にあるとして右派とされることはない。この二種類の思想は。自身が熱烈に運動に投入する強大な動力であった。
 文革中の最初の自殺は歴史系の三級教授汪籛だった。1966年6月初め、工作組は学校に入り運動を指導した。歴史系工作組は海軍と中央各部の委員会から構成され、系事務室には多くの汪籛を暴露批判する壁新聞が張り出された。あるものは汪は1959年に網を洩れた右傾機会主義分子だと言った。6月7日、史一世界史班が開会され、幹部子弟の女学生張某が発言した。「別の班が汪籛を批判している、我々の班はどうしますか?」団支書と班長はともに我々の班も行動が必要だと主張した。張某は汪家で批判闘争を提議した。反対はなかった。私は落後を恐れて、積極支持した。恐らく6月8日のことだったが、全クラスで汪家に行った。汪は病で床に伏していた。皆は「汪籛は右傾機会主義の罪行を誠実に告白すべきである」などのスローガンを叫び、批判闘争会は10分前後であった。のちに聞いたところでは、別の班の学生は汪籛家の門に封印状(封状)を張ったが、汪が外出したときに裂けてしまったとのこと(風が破ったとも)。二日目或る学生がこの封印状がバラバラになって地面にあるのを見て、汪は「文革を敵視し、故意に騒動を起こしている」と指摘し工作組に連絡した。6月10日、工作組は汪に誤りを認めさせて、門に封印状を張らせた。汪はこれに従ったが、この辱めに耐えがたくなり、その夜農薬「敵敵畏」を大量に飲み、1966年6月11日の明け方亡くなった。
p.309    文革前、汪は歴史系で赤く(紅)かつ学術的(専的)歴史学者とされていた。系党総支初期徐華民は言った、汪教授はマルクス=レーニン主義の歴史学専門家で、系内では彼に学術成果の整理保存を求めていると。汪籛はわれわれに秦漢史を教えた。彼の講義は講義の形に縛られなかった、何の拘束もなく(天马行空)言葉は華麗であった(妙趣横生),私は彼の講義を聞くことが最も好きだった。彼は秦の始皇帝をとても高く評価した。「焚書坑儒」「尊法反儒」は新興の封建階級の統治を強固にした良い(正面的)作用があったと。(また)後漢初の劉邦は同様に「尊法反儒」的だとした。多数の儒家が劉邦に面会を求めた時、劉邦は却って彼らを嫌悪した、彼らの帽子を取り去って、中に尿をまいて、彼らへの軽侮を示したと、これには皆大笑いした。当時、汪籛の講義はとても新鮮で、深みもあった。文革中に毛沢東講話の印刷資料を読んだことがある。毛沢東は1958年のなかとも八大二次会議で述べた。秦の始皇帝は「ただ460人の儒家を生き埋めにしただけである、我々は4万6000人の儒家を生き埋めにした。」「君(民主人士の人を指す)は私を秦の始皇帝だとののしるがそれは正しくない。我々は始皇帝を百倍超えたのである。われわれは秦の始皇帝で独裁者だとののしるなら、われわれは全くその通りだと(一概)承認する。」汪籛の史学観点の確立が、毛沢東のこの一段の講話の元になっているかどうかは分からない。汪籛教授が亡くなってから、海軍から工作組に来た人が、我々の班に汪籛家で開かれた批判闘争の情況を聞き取りにきた。そのあとに言った。悪い人が死んだ、死んでしまった、問題はないと。その後、汪は工作組により「罪を恐れて自殺し、党と人民との関係を絶った」とされた。
 多くの年を経てから、私はようやく理解した。汪籛は歴史学の大家陳寅恪(訳注 チェン・インコウ    実証的歴史学者として内外で著名 1890-1969)の弟子であったことを。1950年代初め、彼は史学界でマルクス主義史学のリーダーと認められた。1958年郭沫若が陳寅恪を名前を挙げて公開批判してから、汪は陳寅恪の弟子であったために谷底におとされた(一落千丈)、あわせて1959年に批判に会い、そのあとは気持ちは鬱悶、太っていた体はやせ細り、人が変わってしまった。1958,1959年に遭遇したこともまたおそらく自殺の遠因である。文革中、家の門に封印状を張られたことを、堪えがたい屈辱として亡くなった。ではあるが、我々が汪先生の家に押しかけて批判闘争会を開いたことも、彼の自殺に責任がないとは言えない。汪籛先生。大変申し訳ないことをしました!学生は自身を許せないでいます。


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