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企業制度改革 1980-1988

 鄧小平―趙紫陽が経済政策の責任者であったときに、行われた経済政策をここでは3つの側面に分けてみる。一つは私有経済の容認・拡大である。もう一つは国有企業の経営改革であり、最後に価格改革である。以下は李羅力《沉重的輝煌  告訴你一個真實的改革開放》中國財政經濟出版社2009年第4章pp.83-88、私有経済の再生のところをまとめたものである。なお価格改革については別稿で述べる。

 私有経済再生は、農業から始まった。改革開放後、農業における自留地、自由市場、請負責任制(包产到户)を容認されたこと(1979年9月中共十一届四中全会「農業発展を加速することに関する若干の問題についての決定」は自留地、自由市場を社会主義経済に附属し補充するものとし、82年1月に出された1号文件は、請負責任制を社会主義農業の重要組成部分とした)で、農村から私有経済再生の道が開かれた。
 文革後、農村から都市に大量の知識青年が帰還し、その就業先を確保する必要は、都市での個人企業容認につながった(1981年9月中共十一届六中全会「建国以来の党の若干の歴史問題の決議で、労働者個人経済を公有制経済が必要とする補充だとした。)。なお1981年当時は雇い入れの数は7人を超えないことといった制限が考えられた(1981年国務院「都市の非農業個人経済に関する若干の政策性規定」)。しかし鄧小平自身が、1983年初めに100人以上を雇い入れていた食品会社「傻子瓜子」を保護する姿勢を示したほか、1984年10月の「中共中央の経済体制改革の決定」は「個人もまた国家や集団同様にさまざまな経営方式発展させる」とした。つまり趙紫陽政権期に私営経済の存在と発展が容認されるところまできていた。その後1997年の十五大報告では私有経済は社会主義市場経済の重要組成部分にされた。

 張軍は国有企業改革を3期に分けている(以下をまとめた。張軍《"雙軌制"經濟學:中國的經濟改革(1978-1992)》上海三聯出版社1997年pp.219-224)。
 1.自主権と利益分与(放権讓利)1978~1983
   農村での改革の成功をうけて1978年に国務院は「国営工業企業経営管理自主権に関する若干の規定」を発布した。大企業に自主権を拡大することを過度の統制の突破口としようとした。四川の6社から始めた。増産増収の目標達成後、少量の利潤を残し労働者への奨励金に使うことを認めた。その後1979年初めに約100社に広がり、計画目標の生産を達成したとき中堅幹部の任免を決めことを認めた。7月には全国に試行は広がり、1980年には6600社あまり。1981年には全国で50%の国有企業がこの試験に参加した。
 1980年に利潤の分け方は1979年を基準年として増加した利潤の一定割合を、生産発展・集体福利・職工奨励の3項目の基金に使えるとした。その結果、利潤の増加がみられた。このほか、国有企業の流動資金を財政資金からの撥款に代えて、銀行貸し付けに切り替えること、部門・産業・地区を超えて企業が相互に連携することも認められた。
 自主権を与えられたことで、企業は拡大再生産や更新投資を行う初歩的能力を獲得し、利潤を報奨金に用いること、貨幣メカニズムに育てられはじめたことにより、企業間の平均主義的収入分配の構造が崩され始めた。
 2.利改税 1983-1986
   自主権と利益分与方式は、政府と企業の収入と分配を不安定にした。多くの経済学者は政府収入の安定に不利であるだけでなく、企業が得る手元に残す利潤も不安定で、基準年方式はすでに効率的だった企業に鞭打つ不合理もあると考えた。経済体制改革の進展により国家計画委員会が指令する商品の種類や生産額の比率が工業品の2割未満にまで減った。こうした認識をもとに利改税が導入された。
 1983年4月に導入された利改税は利潤の55%を国家に収める企業所得税とし、残りを税あるいは企業に残す調節に使うというもの。その狙いは(政府の 福光)企業管理部門(主管部門)による干渉を一挙に減らすことにあった。しかしつくっているものの市場化の違い、利益率の違いなどを見ずに一律の税率としたことの問題が経済学者からは指摘された。
 そこで1984年10月に改めて利改税が始められた。営業税、増値税、不動産税など税目が整備され、国有企業所得税は大中型企業は55%の税率としつつ、国有小型企業は8段階の累進税率とされた。このほかに企業の生産経営状況に応じて調節税を徴収するとした。中国の経済学者は、企業と政府が交渉せねばならない調節税方式が残っていることは、利潤を基数法を用いたときの問題が根本的に解決されていないと指摘している。
 3.承包経営責任制 1987-1993
   しかし利改税導入後、企業のコストが上昇を続け、政府・企業の収入が伸び悩んだことから、導入されたのが承包経営責任制、請負責任制である。1986年末に国務院が「企業改革の深化、企業活力増強に関する若干の規定」頒布すると、全国で多くの企業が迅速に承包経営責任制をとり、普及するに至った。この承包制については、企業の経営自主権を拡大するという肯定的評価がある一方で、古い企業制度をそのまま残すもので、時間の経過とともに大きな改革が必要になるという異なる評価がある。(なお1988年4月に公布された「中華人民共和国全民所有制工業企業法」は、法律の面から企業の自主経営、利益損失の自身への帰属を定めていた。)

 請負責任制(承包制)が考えられたが、李羅力は承包制では企業経営者が自身の利益を追求するだけになるので、(国有企業の所有者である)政府と経営者との間の契約は不完全なもの(いわゆる不完備契約imcomplete contract)で、政府は企業経営者を十分監視できず、その監視コストは高くなる、そこで国有企業を株式会社に再編して、経営者が、様々な株主によって(さらには市場を通じて)監督される方式に改められるべきだという主張が行われたとしている(李羅力《沉重的輝煌  告訴你一個真實的改革開放》中國財政經濟出版社2009年第4章p.91を参照)。この問題は、実際は請負責任制が先行し、その後、株式会社化も1986年から開始される形で進行した。この請負責任制(承包制)の問題点から株式会社への移行が必要だとする議論について、もう少しどのような議論があったかを示す記述を探したいがとりあえずこの指摘だけとする(不完備契約の議論は1980年代中葉のアメリカで登場した議論。同時期の中国での議論に先端の不完備契約の議論が入っていたかどうかは疑問なので李羅利の記述は、現代から見た解釈だと思える。大事なことは1980年代中葉に何を議論していたかを記録することである。承包制から株式会社化に移行する1980年代中葉の中国での議論は、中国の株式会社論=ガバナンス論として別途丁寧に掘り起こす必要がある。この点で以下の厲以寧あるいは馬洪の論文を読んだ方がよい。)。
→ 新中国経済学史綱2012   1980年代に株式制が公有制の一つの形態として認められたこと。1997年の十五大で株式制が経営効率を高める形態とされたことなどを確認できる。
→ 今井・渡邊「企業の成長と金融制度」2006  さきほど紹介した李羅力の議論はこの今井・渡邊の説明と似ている。
→ 中国経済学史綱2004   1980年代半ばに株式制は公有制の形式として認められるようになった、としている。
→ 馬洪 市場経済への大変革 1987     全民所有企業の改革がうまくゆかなったからとして株式制への移行を説く。しかしうまくいかなかった内容までは書かれていない。行政が経済の運営に責任を持つということを改めて、企業が経営の主体になるべきだ、という主張がみえる。
→ 厲以寧    経済改革の基本的考え方 1986/04    株式制が公有制の形式であること 株式制をとることで所有権と企業の経営とを分離することが可能なるー政経分離の着想が見える。
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