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朱嘉明先生訪談録:1988-1989

朱嘉明『中国改革的岐路』聯經2013年1月pp.44-46, 48-50 ここでは1988年の価格闖關(訳注 価格自由化の加速全面化)政策の採用から1989年の六四事件の評価までを採録する。ここで繰り返しでてくるのは、吴敬璉への非難である。一般的には呉敬璉は自由化政策の旗を掲げ続けている人物とされるが、他方で趙紫陽の「価格闖關」政策への攻撃を執拗に続けていることでも知られている。しかし少し調べるとわかるのは、この政策は鄧小平が推し進めたものだ。であれば鄧小平の責任も追及するべきだが、鄧小平について吴敬璉は一言も非難しない。そこでこうした吴敬璉を人として信頼できるかが問題になる。実は朱嘉明はあからさまに書いているが、ほのめかす形で人としての吴敬璉を非難している文献はほかにもある。吴敬璉はその時々、目立つ発言をするだけの人ではないかという疑いは捨てきれない。

p.44    陳宜中:·1988年のあの「価格闖關」の決定過程にあなたは参加されたのですか?広く伝わっている言い方は、「価格闖關」の失敗は八九民主化運動の重要な背景である、というものですが。
朱嘉明:1988年の「価格闖關」(訳注 価格自由化の加速全面化)の決定過程は複雑ではありません。鄧小平が決定し趙紫陽が実行(執行)しました。このほか世界銀行も「価格闖關」を支持しました。趙紫陽の頭脳集団である中国経済体制改革研究所は「価格闖關」に反対しましたが、ただし私個人は価格闖關を支持するものです。私の当時の主要な見方は、中国はすでに価格「双軌制(訳注 自由化された価格と規制された価格が併存していることを指す)」です。価格改革を議論する必要はなく、この実行はことの趨勢からは必然である(勢在必行)。しかし当時の歴史条件下にあって、人民大衆は計画価格制度のもといわゆる安定価格に慣れており、市場価格に対して十分な心理準備がなかった。そこで中央政府が提起した「価格闖關」方案に対する民衆の反応は非理性的な買い占め(搶購)であり、これは政策決定部門を元の「価格闖關」方案の撤回に導いたのです。ある人は「価格闖關」の失敗が社会の中に不満を生み蓄積し、それが1989年の社会そして政治の危機を引き起こしたと、見る人がいるが、これは正しく見えるがじつはそうではない(似是而非)見方です。事実上、価格改革(訳注 価格の自由化)は1988年のおいてすでに不可避でした。あの達成あるいは実施されなかった「価格闖關」が引き起こした衝撃は、計画価格の残存する基礎をさらに動揺させ、民衆の市場決定価格への適応を加速しました。あわせて1990年代のあと中国価格「双軌制」は併存(並轨)し、計画価格制度を完結させ、歴史の基礎を固めたのです。
陳:あなたは当時、通貨膨張をどのように見ていたのですか?
p.45    朱:通貨膨張もまた大勢の赴くところでした。1980年代の通貨膨張は、通常の意義の通貨膨張ではなく、経済制度が激烈な転型を遂げるなかでの「価格革命」であり、また非貨幣経済が貨幣経済過渡そして貨幣化に向かうなかでの必然的結果でした。1988年に「中信国際所」「中国経済体制改革研究所」は合同で代表団を編成し、チリ、ベネズエラ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンを訪問しました。その中心任務は、これらの国家で、1970年代と1980年代において高度に通貨膨張が生じた背景、過程そして社会の受容能力、さらに通貨膨張と経済成長との関係について、考察することでした。陳一諮と私は南米考察団の責任者であり、団員には宋國青などの人がいました。我々は考察において、社会転型と通貨膨張とには極めて大きな相関があることを発見しました。通貨膨張だけを孤立してみることはできず、経済成長と国民(居民)収入をさらに見る必要がある。通貨膨張の処理が適切であれば、各種の危機を引き起こすわけではなく、政権の交代にもつながらない。我々は「通貨膨張が無害」と言っていない、ただ、中国やそのほかの転型国家を含め新型市場経済国家について、通貨膨張は避けられない、鍵になるのは通貨膨張にいかに対面するかである、と。我々は中国大使館から北京に向けて何度も電報を打ち、訪問の進展と観察感想を報告しました。
 しかし六四のあと、我々は話す権利を失いました。歴史は話す権利をもつ人によって、適当に壟断されています。吴敬璉はその典型です。彼は次のように言いました。「(趙紫陽)の頭脳集団は、流言飛語をばらまき、ことがらの整理整頓を妨げ、その後は機会に乗じて紛糾を作り出し(製造事端)、動乱を扇動して、経済危機を社会政治危機に向かわせた。」。2000年のあと、吴敬璉が何のはばかりもなく1980年代の経済改革の歴史を作り替え、自身を経済学会の大人物,良心のある人物に仕立てているのは、歴史的なお笑い草です。さらに陳文鴻という香港の学者は、かつてとても長い文章を書いて、趙紫陽はp.46    通貨膨張の問題で、フリードマンの影響を受けたわけではなく、朱嘉明らの人々に誤導されたのであると書きました。陳文鴻はかつて私が主編を勤めた『中青年経済論壇』の編集委員の一人で、交流はあるが、しかし彼の結論は根拠のないもの(道聽塗說)です。
     私がここで特に強調したいのは、趙紫陽は自身の意見がある人(自己主见的)であり、またマクロ経済の実際を熟知しており、我々の見方は彼が政策を決定する一種の参考といったものに過ぎなかったということです。(中略)

p.48  陳:今、あなたは趙紫陽が1989年5月に取った行動をどう評価しますか?
朱:私は今、趙紫陽は4月に北朝鮮を訪問すべきではなかったと考えています。趙紫陽が北朝鮮訪問から帰来したあと、当時の政治構造はますます歪み、北京の局面を緩和する余地は日々急速に縮小しました。万里は外国を訪問しており、趙は上層部で孤立していました。軍隊出動と戒厳令実施を決定した鄧小平に対して、趙紫陽には支持するか反対するかの二つの選択しかなく、趙紫陽は後者を選択しました。このような選択は共産党総書記の趙紫陽には容易ではなく、またこのために、趙紫陽が払う代価は人身の自由を失うにとどまらない可能性がありました。人々は趙紫陽が二つのことをしたことを見ました。戒厳を宣布する会議に出席しなかったこと、そして天安門広場でハンガーストライキをする学生を見舞い、人々の涙を誘う講話を発表したことです。趙紫陽はすでに力を使い果たしており、何をできるかできないかも分からない、極限にありました。趙紫陽にすれば、他の選択は不可能でした。もし趙紫陽に他のことを望むのは、情理に適うものではありません。ただ趙紫陽に要求が過度であるだけでなく、趙紫陽と家族とを危険な状態にするからです。中国共産党の歴史で、総書記の地位にあって党の何らかの誤った決定を拒んだものに、かつて陳独秀がおり、そして趙紫陽がいます。二人の総書記には一つ重なるところがあります、それは死ぬまで屈服したり、自身が誤ったとは認めなかったことです。趙紫陽は亡くなる最後の数年に到るまで、思想の根本の飛躍を実現し、民主制度建設こそ中国が社会が長期安定する(長治久安)出口になることを肯定し、中国は「反対党」が必要であるという問題を提起しました。
陳:20年余りたった現在からみて、六四事件は避けることができたでしょうか?
朱:まず私は、六四の鎮圧は避けることが出来たと考えています。というのは当時、中国と共産党は、学生、市民の各種の合理的要求(訴求)を、平和的に法律により民主的に解決する準備を
p.49    完全に整えており、北京の正常社会秩序の条件と能力を備えていましたから。ところがそのような歴史時刻に、共産党のシステムにおいて最終決定権をもつ鄧小平はあらゆる解決策のなかで、もっとも悪く、歴史の後遺症が最大の方法、即ち武力鎮圧を選択したのです。これはまことに中国にとり一種の運命(宿命)でした。
 次に私が指摘したいと考えますのは、1989年前後において、10年の経済改革が経過し、共産党内にはすでに改革開放を堅持するものと、さらなる改革開放に反対するものとの政治構造が形成されていた。そこでいわゆる「価格闖關」の失敗を利用して,、陰に陽に趙紫陽の政治力に反対する者が出現した。それゆえに1989年4月の後の学生の示威表示や天安門広場での絶食がなかったとしても、共産党内の趙紫陽に反対する勢力は、鄧小平に趙紫陽との決着(攤牌)を求めることになった。これは避けることができなかったし、これこそ六四事件で深く隠されている深層の矛盾である。
 1989年6月14日、吴敬璉は趙紫陽の経済思想と政策を全面批判し、1980年代の経済改革を徹底否定する長文を完成しました。注意に値するのは、彼が六四の時刻にまさにこの文章を書いていたことです。このような行為は、経済学界はもちろん、全知識界で誰もしていないことです。これは著者が新たな権力者にすり寄る気持ちが顕著であることを反映するだけでなく、新たな施政者が
p.50   1980年代の改革の道を離れるための理論根拠を与えるものでした。その後の20年余りの歴史が証明したことは、吴敬璉が否定した1980年代の改革が正しかったことです。また彼は別のところでは1980年代の改革を主張し、中国への導入を支持しているのです。


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