見出し画像

上海(シャンハイ)株式市場の復活と畸形発展 1937-45

尹振濤《歷史演進,制度變遷與效率考量》商務印書館2011年,pp.190-193

p.190 抗戦勃発(爆発)後、中国株(華商股票)取引はどちらかといえば静かであったが(比較沉寂)上海華商証券取引所(交易所)はまた1937年8月11日業務停止させられた。上海が「孤島」となり、その政治、経済の形勢が当面の安定をえてのち、上海工商業はまた迅速に回復発展した。中国(華商股份制)企業が続々設立されるとともに、中国株(華株)取引に従事することも可能になり、利益がでるものに変わった。再びこれに加え外商株券取引の隆盛でお手本のような反応(示範效應)であったが、1940年の後、上海の中国株(華商股票)取引は日を追うごとに盛んになった。
   このときの中国株(華商股票)取引は場外取引に限られていたが、1940年12月に上海信託業同人聯歡會は上海に「中国株券推進委員会」を設立した。場所は北京路中一信託公司大楼であった。加わったのは全部で10社、中一、上海、久安、中国、和祥,通易、華丰,環球の信託公司8社と新華、永大の銀行2行だった。推進会は「中国の株券流通を推進し、投資を便利にし、実業を奨励(提倡)する」ことを宗旨とし、会員は株券売買を紹介し、企業(公司)の質(質量)を調査し、売買価格および数量を記録(登記)報告するものであり、併せて関連することがらを処理することで、会員の株券売買に便宜(便利)を提供する。委員会が紹介した売買はすべて中国株(華股)であるが、その中で正規に登記した株式会社(股份公司)は限られていた。時を経て売買を許された株券は合わせて85種、「組織章程」「取引方法」そして「客に代理して売買する方法」などの規則(規章)制度が制定された。しかし太平洋戦争勃発後、
p.191  中国株券推進委員会は解散を宣告された。推進会の存在は当時の「取引所法(交易所法)」に違反していたが、一定程度、活発な中国株取引と株式市場の発展とを促進した。
 太平洋戦争勃発後、日本軍は租界を占領し、上海の経済形勢には新たな変化が生じた。汪精衛のニセ当局はいわゆる「戦時経済統制政策」を執行し、衆業公所は営業停止を迫られた。公債、外国株、金銀、外国為替そして綿花など商品(物品)取引も禁止され、中国株だけが取引きを許された。新興の中国株株券会社(華商股票公司)が、雨の後の春の筍のように発展を始めた。大部分は遊休資金で中国株を追うものであった。中国株の発行と取引は日増しに活発になった。1942年春の調査によれば、中国株を扱う会社は、わずかに(僅有)永昌,福興,福康,中國股票公司など十余社、しかし年末までに株券会社はすでに146社にまで発展した。この140余りの株券会社の組織形式は株式有限会社(股份有限公司)あり、また合本制(合伙制)あるいは単一資本(独資)の会社であった。資本総額は最高で偽貨幣で100万元、最低が5万元、その中で10万元、15万元、20万元のものが多い。業務内容(方面)では顧客に代理しての売買が主で、その次が同業間取引である。株券会社の発展は、迅速で(風起雲湧),投資対象の株券(股票籌碼)は数十種に過ぎず、とても需要を満たせない(供不應求)状況であり、そこで大量の新株が求めに答え、絶え間なく(接種)上場流通を始めた。1942年8月以後、新株の上場は毎週必ずあり、空前の活況を呈した。同年の統計によれば、永昌股票公司を通じて発行上場した新株だけで53社、内訳は紡績業が18社、薬品が3社、印刷造紙業が6社、飲食品業が4社、化粧品が1社、化学業が1社、不動産業(地產業)が2社、交通業が6社、その他12社である。このとき中国株取引市場は十分に混乱しており、投機売買は極めて盛んだった(盛行投機炒作之風)。この状況に直面して汪精衛偽政府実業部は「中国株売買暫定規則(買賣華商股票暫行規則)」を発布し、各株券商に登記をし保証金を納付(繳納)させ、上場流通株券は法定機関で審査決定(審核   審查核定)すべきであり、
p.192  株券取引の状況は書面報告(呈報備案)されるべきとした。この条例がだされたことで、証券市場内の違法行為は制止(遏制)され,危険が高まった(岌岌可危的)中国株市場は一定程度維持された。
   政局の安定とともに、汪精衛のニセ政府は業務を停止して久しい華商証券取引所の再開(恢復)を決定した。元華商証券取引所董事長張慰如そして総経理の沈長庚の努力のもと、1943年9月29日、にせ華商証券取引所は正式に再開(復業)を宣言(宣告)した。11月8日に開門し営業する。中国株券の専門営業年、最初に(首輪)上場する株券は合わせて108種である。のちに陸続増加して、199種になった。取引所の再開と最初の取引額は活発で、その中で永安紗廠,新業藥廠そして新盆地產などの株券がもっとも賑わい、上げ幅はとても大きかった。しかし1944年に入ってから、株式市場の状況は大きく変化し、株価は直線的に下降、ほとんどは券面額まで落ち込んだ。株価上昇を刺激するために、1945年1月4日、華商証券取引所は株券の随意日取引(便期交易)、すなわち隔日決済(交割)ではなく毎週一度の決済でもなく、さまざまな先物(期貨)取引を取引対象に加えた。永安紗廠など十四の株券に限られるが、この取引が始まってから、株式市場はすぐに(頓時)活発になった。というのは決済が一週間後であれば、裁定行動(套利活動)を進めることができ、投機者に便宜を提供した。別の一面ではニセ貨幣価値がひどく減価し、価値を保つため、遊休資金が大量に株式市場に入った。4月6日になると、95種の株券がストップ高(漲停),15日には全銘柄がストップ高になった。いくつかストップ高銘柄については別に上乗せして取引がなされた。この上げ相場(漲風)はさらに三ケ月持続し、8月10日(ママ)日本の無条件投降後、株券市場は突然ストップ高がストップ安に転じた。これはまさに人々が戦争の終結に際して、未来の情勢や政策の変化を読むことができず、混乱した(迷惘)心理状態の反応のせいである。
 汪精衛のニセの統治時期の取引所の開業は、営業したのは2年足らず、かつ投機の気分の影響は大きく、また汪精衛のニセの経済政策の求めるものが基礎となっていたが、しかし取引所の業務そのものについていえば、取引対象が公債から中国(華商)企業株券に移ったことは、近代証券市場の新たなp.193  1ページを示す(揭示)ものだった。

新中国建国以前中国金融史

#華商証券取引所 #華商証券取引     #上海 #成城大学

main page: https://note.mu/hiroshifukumitsu  マガジン数は20。「マガジン」に入り「もっと見る」をクリック。mail : fukumitu アットマークseijo.ac.jp