都留重人『現代経済学の群像』1985
安井琢磨(1909-1995)について調べる必要があって、書庫から本書(岩波書店)を引き出し、その第六章「柴田敬と安井琢磨」を読んだ。二人は戦前から戦後にかけて活動した経済学者。都留はこの二人を、戦前から戦後にかけての日本の理論経済学者のなかで、国際的に評価をしてよい学者として選んでいる(写真は京都駅に入線する東海道新幹線n700系 2020年2月22日)。
柴田敬(1902-1995)は1924年に山口高商から京都大学に進学。学部では河上肇のゼミに入っている。その後、1927年に卒業。1年の兵役のあと、1928年に京大大学院にもどり、神戸正雄の指導をうけ、(神戸の推薦で)1929年に講師に就任している。柴田の当初の関心は、大恐慌の原因解明にあり、その手がかりとして、カッセルによる世界貨幣金と世界の物価変動との相関の指摘に関心をもった。そしてその後、柴田の関心はワルラスの一般均衡理論と、マルクスの再生産表式の総合に移り、1936年春から2年間、米国さらに英国へ留学の機会を得て、1938年春日本に帰国している。
柴田が1944年から45年にかけて撤兵に向けた建言を作成して動いたと都留は指摘している。しかしこの建言は実現しないまま終戦。柴田は1946年3月にほかの勅任教員とともに京大を依願免職、さらに5月には連合軍司令部から軍国主義の代弁者だったとして、追放命令を受けて、大学の教職にはつけない苦境を経験している。幸い1951年4月に追放命令を解除され、新制山口大学に赴任。経済学部長に就任している。その後1960年に青山学院大学経済学部に転出している。1971年3月の定年退職まで青山に勤めている。柴田のの人生は時代の流れとともに波乱に富んでいる。
(なお私の手元に柴田敬「経済の法則を求めて―近代経済学の群像ー」日本経済評論社1978年がある。この本では柴田自身の言葉で、かれの一生と世界の経済学者との関係をたどることができる。都留が書いていた以上に世界の経済学者と高いレベルで交流していたことと、留学から帰国後、新体制運動にかかわったことなど、やや政治的と取れる動きを柴田がしたことも書かれている。)
そして安井琢磨である。安井は大阪生まれで、旧制の大阪高校から東京大学経済学部に進学。河合栄次郎のゼミに入っている。河合から大学に残ることを勧められた安井は、河合の専門の社会政策論ではなく、経済理論をやりたいと河合に申し出て認められている。こうして安井は1931年に助手になっている。ところで先ほどの柴田が大恐慌の解明に関心を寄せたのに対して、安井はワルラスの研究に集中しようとし、早くも1932年には東京商大の中山伊知郎(1898-1980)を訪ね教えを乞うている。理論そのものに関心があったことが伺える。
こうした安井を襲ったのが、1939年1月に起きた、河合栄次郎の休職処分事件(河合事件)であった。時代の右傾化、学内の派閥争いなど、この事件の背景をめぐる分析はさまざまにあるが、問題は河合門下でこの問題で対応が分かれたこと。安井は恩師にあくまで忠節をつくして辞職した人とは異なり、辞表を撤回して大学に残っている。
他方で戦争中、安井は、時代に迎合した文書を書くことなく、純粋理論の研究を続けたが、東京大学学内では国家に協力するようにと圧力もあったとされる。そのためだろうか。1944年に東北大学から招きがあった時にこれを受け、1944年7月に東京大学を去り、1944年9月から東北大学法文学部に移っている。その東北で約20年を過ごしたあと、1965年に大阪大学に転出。1970年には中山伊知郎に続き、理論経済学会の第二代会長に就任。1971年には経済学者として小泉信三に続き二人目の文化勲章を授与されている。
研究のなかで安井が大事したのが、ワルラス研究だったと都留は述べている。ワルラスへの関心は柴田にも見られたが、1930年代には広かったといえよう。そしてその研究途上で現れたケインズの「一般理論」やヒックスの「価値と資本」の衝撃については、今日からみてもその衝撃の大きさは想像がつくところである。
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