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許良英談鄧小平趙紫陽 1999

この記事のSourceは以下のとおり。許良英談鄧小平趙紫陽 1999年自由亜州電台 張敏専訪(open開放網 2013年12月8日更新)。以下は全訳。(写真は方励之文集第二巻より)

 1986年11月、方励之は私を訪ねてきて、1987年は反右運動30周年だから、反右運動の歴史討論会をやるべきだと述べた。(そこで)私と、劉賓雁、方励之の三人が連名で発起人になったが、私の家の中で討論して決めたことだ。(しかし)鄧小平は胡耀邦に辞職を迫り、方励之らの党籍を解いた。我々の反右歴史討論会もまた開会を許されなかった。
    当時、党籍を解かれたのは、方励之、劉賓雁、王若望の三人。実は趙紫陽は私と王若望とを混同したのだ。その後に10数人の党籍解除が計画されていて、私はその筆頭だったが、のちに趙紫陽は慈悲心を起こし、暫時除籍はしないこととになった。
 のちに私は、1989年、五四運動七十周年、フランス大革命と人権宣言二百周年の年に、我々は民主思想啓蒙運動をしようと提起した。一月、方励之は鄧小平宛の手紙を発表した。私と昔からの勉強仲間の施雅風は「公車上書」(訳注 1895年日本との和議について、康有為、梁啓超らが光緒帝に連署上申したことを指す。公車とは皇宮で臣民を接待する機構を指す。)を真似て、党中央に手紙をしたため四点の要求を提起した。①政治改革と経済改革は同一歩調であるべきであり、民主監督を開始(建立)すべきであり腐敗に反対すべきである。②公民の自由権利について、まずは討論、出版、新聞の自由を保証せよ。③言論のために有罪とされている人を釈放せよ。④科学と教育の発展を保証せよ。
 当時署名した人は42人。圧倒的多数は実績のある科学者であった。
 その当時、趙紫陽が総書記を担任しており、態度ははるかに良かった。この書簡がボイスオブアメリカ(美國之音)で放送されると、科学院は会議を開き、(科学院の)党書記が中央の講話を伝達した。我々の手紙の内容に問題はない、署名した人々に圧力をかける必要はない、署名した人を探して話す必要もない、とのことであった。その後、統一戦線部長闇明復はとくに私と家内に面会を求めて、心を開いて話し合った(雅風談話)。(懇談は)午後から夜に及んだ。彼は述べた、意見があればそのまま話してよい、我々はすぐにも話されている多くのことを自由化すると(我們就放開了講了很多    訳者:この訳でいいでしょうか)。我々は当時、中央は(我々より)さらに開明的だと感じた。

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