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Zhu Rongji 朱鎔基 1928-

朱鎔基 Britannica Kids

 1990年代前半の中国経済成長の急速さは、もしもバブルが爆発したなら、経済的災難になりえただろう。そうならずに一貫して安定して繁栄したのは、敵を作ることを恐れない、エネルギッシュな現実主義者である、中国の副首相朱鎔基が行った、強固な経済政策のおかげであった。朱は1998年に首相になった。
 朱鎔基は1928年10月20日に湖南省の長沙で生まれた。清華大学で電気工学の学生となった朱は、学部生の間に学生運動家になり、1949年に中国共産党に入党し、2年後に卒業した。1952年に彼は国家計画委員会の部門長補佐になった。
 百花斉放運動の間(訳注 1956年5月から翌1957年5月)毛主席による政府政策批判の誘いを受け入れた他の人と同様に、(訳注 その後始められた反右派闘争で)朱は極右派とみなされ、そのキャリアで苦しめられた。彼はその後の文革の間、「再教育」のため地方に送られた。国家計画委員会の中で再任用され、(まず)技術者として働き(1958-69年)、それから「5月7日業余学校Cadre School」の労働者として働いた(1970-75年)。1975-79年の間の一連の短期の任用は、彼の名誉回復を完成した。
 彼の政治的(立場の)上昇は1979年の国家計画委員会への任用により始まった。そこで彼は党主席鄧小平が導入した市場改革と深く関わった。部門長そして技術改善をする部局の責任者としての3年のあと、朱は国家計画委員会の副代表(vice-minister)になった。
 1989年の北京天安門広場の殺戮のとき、朱は数百マイル離れた上海に居た。そこで彼は1987年から上海市党委員会の副書記であり、1988年からは市長だった。朱は上海の政治的抗議者たちに対して、報復reprisalsの実行を回避した。公衆の過度な動きextravaganceを統制する彼の指針が、彼の人気を高めた。朱は市長として1990年に通商代表団を合衆国に引率した。
 朱は1991年に上海を離れ、副首相として又国務院の責任者として中央政府に再び加わった。1992年10月彼は中国共産党中央常務委員に選出された。
 1990年代前半、中国経済は過熱していた。銀行は見境なくindiscriminately貸し出し、夥しい不良貸付を作り出して金融制度を危険にさらしていた。1993年7月、朱は中央銀行総裁を首にして、自身がその任に当たることにして、国務院担当の副首相(第一副首相)と兼任した。 朱は金融を引き締め、カネを浪費する地方の役人や収益の悪い国営企業の経営者たちを怒らせたが、経済の軟着陸のためにインフレを低下させた。彼の目標は達成された。彼は中央銀行総裁からは退任したが副首相にはとどまり、課題を達成するためには進んでリスクを取る指導者である、との評価を高めた。
 朱は1998年3月17日に李鵬から首相を引き継いだ。首相として朱は、政府と軍隊の規模をほぼ百万人分縮小した。彼はまた、住宅そして医療制度と併せて、重い債務状態にある銀行制度と国有企業を改革する計画を始めた。朱は相互関係の改善と合衆国による中国のWTO加入への支持を期待して、1999年4月合衆国への公式の訪問を行った。2000年に合衆国議会は、中国の最恵国条項に関する年次議会見解を削除することを決めた(訳注 中国の最恵国待遇については年次承認の形になっていた。恒久化することが中国のWTO加入のためにも必要であった。)。2001年に中国のWTO加入が認められた。

生まれ変わる中国 三大改革の総括 アジア四季報 ふくおか銀行2001/05
柯隆   中国の政治改革は待ったなし 共産党の歴史の総括 JOI2011/09 38-39 
柯隆   中国経済の行方とそのソブリンリスク 研究レポート 富士通総研 No.378 2011/10


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