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朱嘉明先生訪談録:1958-1967

 朱嘉明『中国改革的岐路』聯經(臺北市)2013年1月pp.16-25(1958年小学校への進学から1967年文革2年目まで)。中国の文化大革命について、外部から見ていて釈然としないのは、殺人や文化財の破壊を行ったことの責任が、今も問われていないことだ。これについては、文化大革命だけでなく、そこに至るまでの中国の近代史をみても、同様の殺人や文化財の破壊があること。文化大革命に限定して言えば、その主犯は幹部の子弟と目されること(宋彬彬について)などを指摘できよう。
 ところで文革では、紅衛兵組織が乱立し抗争を繰り返したことが知られるが、その抗争の理由については、不明な点が多い。そうした中で今から10年近く前にこの本のこの箇所を読んだときに、文革における北京の中学生の中の「四三派」と「四四派」の違い、が初めてよくわかった。先ほど述べた幹部の子弟はこの「四四派」と重なる。
 朱の説明からやや図式化して両派について、やや誇張して整理すると、文革の時期に生じた、共産党の第一世代の幹部子弟たちの政権の継承を図る動き(四四派)に対して、異議申し立てをする動き(四三派)の対立と整理できよう。前者は血縁や出身階層を重視して権力継承を図る以上、性格として保守的で非合理主義だが、大義名分としては革命の擁護や階級闘争の継続がある。徹底した暴力や破壊を自らの革命性の証明として使う傾向がある。後者は、政権継承に注目すると前者を批判する動きである。かつ文書作成や論理構成力には長ける人材がそろっていた。また北京市の中学生に限定すれば、このグループを無視して革命はできない。
 1967年、中央文革はまず、後者のグループの組織力量を認めて人民大会堂で彼らと接見した。しかし翌日、バランスをとって前者のグループとも接見した。結果として、中央の公認を得た両派は、その後、勢力争いから1967年夏には武闘に至ったと朱は説明している。

陳宜中:あなたのご家庭の背景から始めていただけますか?
朱嘉明:私は北京人で漢人です。しかし朱家は清朝では「在旗」的でした(八旗に属していました。満人の軍人組織に属して平時は民政を担っていたことを指す)、伝説によれば正藍旗あるいは鑲藍旗です。私の曾祖父のときまでには、朱家は清朝で実権のある官僚ではなくなっていました。曾祖父は頤和園の1894年前後の建設に極めて大きく関係しましたので、祖父は頤和園の中で成長しました。北京の豊台地区には「朱家墳」を作ったとされるところがあり、北京釣魚台一帯はかつて朱家の祖先の墳墓がありました。残念なことは家譜が文革の間に破壊焼却(毁之一炬)されたことです。私の母方の祖父の家族と清王朝にも相当の関係がありました。彼本人は家を出ましたが、北京の東嶽廟で最後の時を迎えました。全体として言えば、父親あるいは母親を問わずいずれの家族も、民国初年が始まると急速に衰退し、私の両親が結婚したときには、双方の家族の多くはすでに没落していました。
 私の父は1913年に生まれ、母は1917年に生まれました。私には二人の兄と一人の姉がいます。長兄は1935年生まれ、次兄は1940年生まれ、姉は1938年生まれ。その下になお生まれたのが私で、兄や姉の年齢は私よりとても上です。父親は私が4歳のときに、長期にわたり遠隔地勤務になった。毎年、休暇に親に挨拶に戻るだけでした。そこで私と母は互いに依存しあうこと(相依為命)になりました。
陳:北京は貴方にとってどのような意味がありましたか?
朱:文化革命前の北京は私にとり忘れられないもの(刻骨銘心)です。当時の北京は今日の北京とは違います。老舎が描いた北平と実相においてあまり違いません。老舎は「北京を想う」の中で次のように言いました。彼が北京を愛するのは、些末な(枝枝節節的)なにかではない、それは彼の精神と結合した一段の歴史であり、その大きな塊である、小さな事件ごとに背景をなす風景名勝があり、自身の思いの中にもいくつかの北京がある。これは言わずとものことだと。私もそうです。私は景山の前の街一帯にありました。西の端が北海、東の端が景山で、南は故宮に面していました。私は小学校の時、ほとんど毎日北海と景山に行きました。私の中学は、まさに什殺海と後海の間、恭王府の近くにあった。あの年代において、北京の城門はなおよく残っており、城の中から容易に西山が見えた。西直門の外には水田があり、近く(街坊四鄰)には前の時代に忠実な老人や若者(前朝遺老遺少)は少なくなかったのです。私の流浪の生涯において、北京を思い起こし、老舎の話に思いが到ると、涙を禁じ得ない。まことに北平のことがなつかしい。
陳:お母さんのあなたへの影響は大きかったですか?
朱:そうです。母親は「過去を生きている(活在昨天)」人でした。小さい時、彼女は私を連れて、北京の様々なところを歩きました。そして私にこれらの場所と朱家そして彼女の父親家族との関係を伝えましたが、それにより私は清末期と民国の時代に対して、教科書とは異なる認識を得ることになりました。私が子供の時には、二人の兄からとても大きな影響を受けました。小学校に入る前、私は常々彼らの話を聞きました。長兄が東北の牙克石一帯と蘭州、それからウルムチに到る鉄道建設の測量(勘测)と建設に参加した経験や、高考の数学理科化学にいかに準備するか、「解放前」の記憶、さらに毛沢東や郭沫若といった大人物と反右の見方まで。私は更にいつも、長兄について北京図書館に行った。覚えているのはプーシキンの朗誦会に参加したことだ。1959年初め、長兄は「反革命の小グループ」に関係(牽連)があるとして、加えてもし中国でハンガリー事件が起きたらデモに参加する(上街)と話していたとして、拘留された。正式メンバーでなかったので、裁判で判決を受けたわけではない。この「反革命の小グループ」は北京の高校の何人かの若い人たちで、時の政治に不満を持ち、マルクス主義を疑ったのである。長兄のことで民警は我が家で捜査を行い、私の工作や図書本までひっくり返された(踩在脚下)。この記憶はその後、大きくなっても残っていた。我が家が受けた災難はこれだけではなかった。1958年にまだ18歳にならない次兄は、内蒙古工学院で学ぶことになった。「困難」な時期となり、学生は十分食べられず、一部の学生はなお「解放前」が良かったと言い、国民党旗を掲げるものまで出た。これはあの時代にあっては重大政治事件であり、すべての参加者がとても厳しい懲罰を受けた。次兄は参加者ではなかった。しかし見ていながら報告しなかったというので、在学観察処分になり、青年団から除籍処分を受けた。二人の兄が政治上遭遇した災難は、彼らのその後の人生に深く影響した。また我々の家に長期にわたり政治の影を落とすことになり、一人一人がとても慎重に生きることになった。
陳:文革前の教育について話してください。
朱:私は1958年に小学校に進みました。小学校の名前は北京西板橋小学です。入学すると出会ったのが、大錬鋼鉄運動です。小学と北京市少年宮がとても近かったので、1960年に激烈な競争を経て、少年宮の絵画組に合格し、その後、書法組と将棋(围棋)隊に参加した。私は放課後は主に少年宮にいました。小学四五年級のあと、大量の読書を始めました。北京少年宮の図書館は、当時北京の青少年が大好きな図書館でした。私はこれらの図書館にある歴史と科学普及書とをおよそ読みつくしました。このほか私は北京西城区図書館、西四新華書店で読書をしました。私の本当の転換点は1964年というべきでしょう。その年は初中である、北京男十三中に進学しました。
陳:どのような転換ですか?
朱:中学に進学後、もっとも強烈だったのは、学校が政治と出身家庭を重視していることでした。クラスの半数以上の同窓生は皆、小学のときに少年先鋒隊の中隊長あるいは大隊長でした。彼らは次々に「共産主義青年団」に申請加入しました。幹部、軍人、工農業労働者の子弟は忽ちある種の優越感が顕著になりました。私は一種無形の圧力を感じました。例えば、私は共産主義青年団がどのような組織か全く知らなかった。「大寨」と「大慶」の違いが分からず、毛沢東選集(甲種本)と毛沢東選集(乙種本)とのどのような違いがあるか(訳注ーネット上の説明によれば、1964年6月に人民出版社から出されたものを甲種本。同年月に中国青年出版社から出されたものを乙種本という。内容と装丁に差はない。内容はいずれも37編の論文。装丁はいずれもペーパーバック。違いは前者は2巻本、後者は1巻本という点。また前者は読者としてホワイトカラーを狙っている)知らなかった。のちに学校が我々に「四清」方面の文件の学習を組織した時、初めて「階級闘争」の類の概念を知った。私は政治にはほとんど関心がなかったので、各科目の成績を上げることを優先する決心をして、絵を描くこと詩作は放棄し、毎日数学を補習し、飛び級に備え、将来は大学で天文学を学ぼうと考えた。初一の下学期には、私は全クラスで成績がトップになりました。初二上学期には『人民日報』が私を認めて、北京市の中学通信員に選抜した。あのころはこれは大ごとで、このことで私は党支部書記の曹立珊の接見を得た。
王超華:かれらはなぜあなたを評価したのでしょうか?
朱:はっきりはわかりません。おそらく『人民日報』は、作文を比較してそれが良い子を選んだのではないでしょうか。当時共産党内部の知識分子もまた、政治標準をもって最高の基準としない旧時代を過ごしたひとたちでした。
陳:あなたが初中二年級のとき、文化大革命がはじまりました。文革の経緯について話していただけますか?
朱:1966年6月、文化革命が始まって間もなく、劉少奇と鄧小平は工作組を組織して、北京の中学に進駐させました。我々の学校に来たのは「団中央」即ち中国共産主義青年団中央委員会から来たものでした。工作組が来る前に、学生はすでに自身の組織を作っていました。クラスごと、学年ごとに「文化革命指導小組」が作られ、私は初二年級文化革命指導小組組長に選ばれました。
 間もなく毛沢東が湖南から北京に戻り、工作組は忽ち消え去りました。それとほとんど同時に、いわゆる出身の良い中学生があらゆる中学の権力を掌握し始めました。1966年7月8日、私の初二年級文革組長の権力は罷免され、かつ長時間の批判を受けました。すべての北京市の中学において、文革は「老兵」(訳注 出身の良い中学生 老英雄の子 幹部の子弟を指すのではないか)が主催するものに変化し、譚力夫の「老英雄の子は正しい人(好漢)であり、老反動の子はどうしようもない人(混蛋)である,これが基本であるという」對聯(訳注 紙や布に書かれた対語を指す)は中学と大学に衝撃を与え、北京の中学と大学における「血統論」をめぐる激烈な議論(辯論)を招いた。1966年8月初め、我々の学校(十三中)の高校三年二組と北京四中の代表が「血統論」に関して議論を進めた。四中からは間もなくのちの「西糾」と「聯動」(訳注 幹部の子弟が四中で組織した紅衛兵組織を指す)中の風雲を巻き起こす人物たち、すくなくとものちに中信集団董事長になる孔丹、それに薄熙来の兄の薄熙永がいた。彼らが我々に与えた印象は、発育良好、器宇軒昂(外見が並外れている)、あるものは父親の軍服をまとっていた。議論は革命の根本問題は何かに及んだ。四中は政権問題を提出、十三中は農民問題を主張した。議論の結果は「血統論」の成立は容易でないということであった。
王:それは学校対学校、あるいは派閥対派閥ですか?
朱:当時はまだいかなる派閥も形成されておらず、学校対学校でした。しかしとても急激に文化革命は「赤色テロ(紅色恐怖)」の段階に入ります。いわゆる「破四旧(四旧を壊す)」が開始されると、人の家を捜索したり、捕まえたり、批判闘争したり、暴力をふるい、殺したり、自殺させたりといった状況がいたるところで発生しました。
 しかし「赤色テロ」が北京を席巻する前夜、我々の学校ではすでにいわゆる地主が殺されています。四五十歳で学校ちかくの定府大街に住んでいた人です。学校の運動場で、最初は批判闘争、それから殴られ蹴られ、さらにバットが使われ、すぐに動かなくなりました。ある一年生がガラスの破片で彼の背面を切り裂いて、死亡を確認しました。その後、平板に載せて運び出しました。この人が恐らく北京の中学生が学校内で殺した最初の人です。今日文革の受難者を語るとき、有名な人(有頭有臉的人)にとても注目し勝ちです。しかし我々の学校で殺されたこのような人は、誰もその名前を憶えていないのです。このほか、我々の学校では学名武素鵬、小七というあだ名の初三の同窓生が、老紅衛兵によって木製ライフル(木頭步槍)で殴り殺されました。この人物は、王友琴により彼女の著名な『文革受難者』の中に記載されています。以上の二つの事件は、私を刺激しました、私が受けたショックは大きなものがありました。私は死んだ人に同情します。
 この時、北京十三中は「抗日軍政大学付属中学」に改名し、校旗も変更され、すぐに、革命軍人、革命幹部、労働者子弟が組成した学校臨時指導機構が作られました。北京西城区には紅衛兵糾察隊、すなわち「西糾」が作られました。(1966年の)秋になると大規模な連携(大串連)が始まり、老紅衛兵は「聯動」、フルタイトル「紅衛兵聯合行動委員会」を組織する。この後高幹部子弟は中央文革から攻撃(打撃)された。こうした中、いずれの紅衛兵組織にも参加していない中学生は自身の組織を作り始めた。私と何人かの同窓生は「黄河戦略大隊」と呼ばれる組織を作り、併せて何回か『黄河』『漫天雪』という印刷物を出版した。これは私が生涯で初めて享有した「出版の自由」でした。
陳:北京の中学の文化革命の中でどの事件の影響が大きかったですか?
朱:それは遇羅克の『出身論』でしょう。遇羅克本人は中学生ではありません。しかし、1966年末と1967年初めに彼の『出身論』が『中学文革報』に二期にわたり発表されると、想像を超えた影響が生まれました。遇羅克の文章は平易かつ雄弁で、「血統論」批判の背後の胸の内には人権と人の尊厳を守る気持ちがあり、中国の政治制度に全面的に挑戦するものでした。それゆえ、文革のあのような混乱時期においても、統治者は遇羅克のような挑戦、その思想体系と意識形態を受け入れられなかった。『中学文革報』はすぐに封鎖され、遇羅克自身も投獄され、1970年初めに処刑されました。
 当時の分類によれば、我々は「赤五類(訳注 紅五類とは革命軍人、革命幹部、労働者、貧農そして下層中農)」ではなく「黒五類(地主、富農、反革命、破壊分子そして右派)」でもなかった。これについてしかしわれわれのような人からすれば、当然血統論に反感があった。しかし遇羅克の我々への影響は、血統論批判を超えています。彼はあの時代の先知先覚者であり、我々のこの時代の解放思想を推進し、システマチックな新思想の先駆です。遇羅克が「血統論」を批判したのは、彼が中国に「世襲」が存在する可能性を既に意識していたからです。今日のいわゆる「太子党」問題は、実際のところ「血統論」から一種、歴史的につながっています。
 1967年春、毛沢東は、「三七批示」を行いました。その内容は、授業に戻り革命を行いなさい、すべての中学は軍事訓練をしなさい、これは事実上は軍による管理でした。1967年3月までに北京のすべての中学は、軍の管理下に入りました。これと同時にあらゆる「老兵」即ち老紅衛兵が、監獄あるいは拘留所から全員(統統)釈放されました(訳注 ここは朱の説明が不足しているが、「老兵」たち、つまり幹部の子弟に問題行動が多く、軍に拘束されたものが少なくなったと考えると合点がゆく。なお実権派と目された幹部の子弟が批判されるのは、この後の時期ではないだろうか。)。当時の北京警備(衛戍)区司令の李鐘奇は釈放にあたり「高級幹部子女接遇について」講話を発表、結果として北京の中学生は歴史的な分裂をし、「四三派」と「四四派」が生まれたのです。「四三派」と「四四派」の出現は偶然ではなく、現代中国政治の理解で無視できない歴史的事件なのです。
王:「四三派」「四四派」そして「老兵」の関係はどうだったのですか?
朱:当時、「老兵」は文革初期、毛沢東を支持する「老紅衛兵」を広く指していましたが、のちには「聯動」のことを指すようになりました。
 「四三派」「四四派」の出現と「老兵」は関係があります。上述した李鐘奇の講話は、たちまち北京の各中学に伝わりました。数日のうちに多くの中学生が街頭で李鐘奇に反対し、「打倒李鐘奇」のスローガンが北京城のあらゆるところに張られました。これは巨大なエネルギーで、その発展と勢いは、「授業に戻り革命を行い」「軍事訓練する」ことの失敗を導きました。そこで中央文革小組はとても恐れて、4月3日に人民大会堂に中学生の代表を集めて会合を開きました。この会で中央文革の主要メムバーは李鐘奇を厳しく批判し、陳伯達は福建の話を使って李鐘奇の思想は「龍が龍を生み、鳳が鳳を生み、ネズミの子は巣の穴を叩かれる」ものだとした。こうして「四三派」が生まれた。
 翌日4月4日、中央文革は中学生の異なる政治力量のバランスを取るため、別の中学生代表と接見し、こうしてまた「四四派」が形成された。「四三派」は一般に全員が知識分子出身で、黒五類にもまた赤五類にも属していなかった。四四派は一般に全員が労働者農民か幹部の子弟だった。私は四三派であり、現在国務院副総理の王岐山はおそらく「四四派」である(原注 王岐山は「四三派」だとも言われている。このことはなお証拠を必要としている。)。彼は三十五中である。四三派、四四派のほか老兵がいました。この時、「聯動」が復活したのです。北京の各中学は1967年4月の後は、「四三派」が指導するかあるいは「四四派」が指導するかでした。その年(1967年)の夏、「四三派」「四四派」さらには老兵の間の「文字闘争」と「武装闘争」はますます激烈になった。武装闘争のため、北京の中学生からさらに数人の死者がでた。今思い起こしても、なお深い痛みを感じる。(中略)
陳:「四三」「四四」「聯動」は社会成分の違いのほか、政治の見解に違いはあるのですか?
朱:「四三派」と「四四派」の違いはかなり深刻です。中国社会は出身家庭を等級の基礎とするべきか、さらには共産党政権は自身の子弟に継がせるしかないのかに及ぶものです。あのときの核心問題は「中国という国家の後継者(接班人)は結局誰なのか?「四四派」は中国は労働者農民の天下であり、当然、労働者農民の子弟が引き継ぐと考えた。「四三派」はそのように考えなかった。(中略)
 さらに言えば、共産党の意識形態の基礎は階級理論である。その政権の合法性は階級闘争進行を前提としている。「血統論」は階級差別の存在や(それが)不断に続くことを前提にしている。そこでいわゆる「無産階級独裁(専制)」は不断に「敵」と「独裁」の相手方(対象)が存在することで可能になる。中国は文化革命時期に到るまで、少なくとも「憲法」はあらゆる公民は平等だと称していたが、実際はそうではなかった。共産党の正統的な言い方によれば、中国社会は階級社会であり、労働者と貧しい下中農民が主人であり、その他の階級はただ主人による統治を選ぶしかない。学校、工場、農村、道路において、いわゆる出身のよいものは優越感を悪者は劣等感をしばしば感じる。出身の悪いものは大学に進学できず、妻をめとれないことはよくあることである。ここにおいて、多くの若い人にとって、どのような結婚相手を選ぶかは身分を変えることであり、出身からくる「原罪」を減らす途だった。


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