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朱鎔基 清華精神について 2001/06/05

2001年6月5日清華大学での講演の一部分。清華的精神是追求完美(2001年6月5日)載《朱鎔基講話實錄 第四卷》人民出版社2011年pp.159-165 esp.159-164 朱鎔基が母校清華大学の経営管理学院院長を長く務めたことを、日本人で知っている人はどれだけいるだろう。2001年6月。この院長を辞するにあたり、母校を訪れ以下の講話を行っている。そこには理系に見える朱鎔基が実は文学青年だったことや、国民党の腐敗を批判する民主人士に共鳴していた、党人になる前の彼の素顔(聞一多や朱自清の名前をまずあげているほか、張奚若への傾倒を語っている。清華時代にマルクス主義を学んだとしている)も見える。講話は、青春時代に試行錯誤のできる大事さを語っているようにも思える。
→参照 朱鎔基の学生時代1944-51
              清華大学と北京大学

p.159  私は今日はとても興奮しています。米国ホワイトハウスのサウスガーデンでの講話のときもこれほど興奮しませんでした。外国人に対して私は少しも恐れません。しかし、同窓の皆さんを前に私はとても緊張しています。おそらく「後世畏るべし」だからでしょう。
 校長、校党委員会書記は私に同窓の皆さんに話をするように求めました。私は私の講話が皆さんに良いところがあることを希望します。つまるところこれは私の経験談です。しかし良いところがなければ、批判(批評)してください。私の話の正しいところ、道理がある(理屈にかなっている)と皆さんが感じたことを、研究討論してください。私が正しくないことを話していると感じたら、許して下さい。私は終日文件を見たり、会議を開いたり、講話をしたりせねばならないことが大変多く、百分の百、行きすぎない(不”走火”   無駄な話をしない)ことは実際むつかしいからです。
   1984年に清華大学が経済管理学院を設立したとき、劉達同志(当時、清華大学党委員会書記兼校長)が私に院長になることを求めました。当時私は国家経済委員会の党組織副書記、常務副主任を担当していました。また当時私の知識は浅く、実際上私は経済管理を学んだことはなかったのですが、経済管理にとても興味があり、すぐに就任を引き受けました。(しかし)仕事をするほどに自らの至らなさ、不適合(不夠格)を感じ、同時に仕事がとても忙しく、経済管理学院に対し確実に多くのことはできないことはとても慚愧(慚愧)に堪えないところです。私は何回か、私は担当できないと申し出たのですが、彼らはいつも「それでもとても役に立っている」と私を説得しました。最近また王金中(当時、清華大学校長)同志、賀美英(当時,清華大学党委書記)とこの件について話しました。私はどうしても
p.160  今一度院長はできないと伝えました。彼らは検討した後、ついに私が経営管理学院の職務を辞去することに同意しましたが、私に名誉(栄誉)学院長就任を求めました。私はこれもまたできないと感じました。たくさんの外国の大学が私に博士号(博士頭銜)を送りたい、あるいはなんとか奨を送るので受け取りに来い、と言いますが、私はすべて断ってきました。私は博士学位を得るためには、必ず私自身の能力を使い勉強する必要があり、勉強できなければ彼らも送る必要がありません。あとで彼らはいいました。経済管理学院顧問委員会の名誉主席ならいいでしょうと。これに私はそれならいいでしょうとこたえました。名誉主席は自由度はとても大きいからですし、顧問委員会の仕事や進行に影響も与えないからです。
 真面目な話をしますと、同窓の皆さん、こうして私は以後来ません、私は「名誉を受けただけ」なのですから。しかし安心してください。私の心はいつも清華大学にあり、経営学院にとどまっています。私は今日この院長を辞去しに来ましたが、皆さんに証人になって欲しいのは、私は清華を離れない、私の心はなお清華にあるということです。清華大学と清華経営学院が成し遂げた一つずつを、私はみずからのこととして光栄に感じます。あなた方の頭を占めるすべての問題に、私も関心があります。皆さんに欠点があるなら、私もまた遠慮なく提起します、なぜなら私は清華人ですから。
 私は10年前、清華の学校のお祝いのときに「水木清華、春風化雨、
p.161  教我育我、終生難忘(清華で受けた教育の学恩は終生忘れがたい)」の四句(の詩)を贈りました。清華が私に与えたものはとても多く、私が清華のためにできたことはあまりに少ないのです。私は清華がますますよくなり、世界の一流大学になることを心から希望します。私たちの学生一人ずつが世界の一流大学の学生として恥じるものでないこと、これは私の願いです。私は、着席の同窓に皆さんが、清華を世界の第一流大学にせねばならないと、経営学院を世界の第一流経営学院にせねばならないと、祖国に尽くして、中国を世界の第一流の強国にせねばならないと、すでに志を立てておられると信じています。
 以下では私の皆さんへの希望を話すことにします。
 昨日の夜、私はよく眠れませんでした。ずっとどのようなことを話すべきか考えていました。私は9年前清華大学電気機械系創立(成立)60周年を祝賀するために一篇の文章を書きました。「学ぶためと人のため」という文章で、当時同窓生が私に書かせたものです。この言葉を書いたのは章名濤先生です。私が清華で学んでいた時、かれは電気機械系主任でした。彼は1950年の最初の集会で、学ぶためと人のため、この問題を話しました。章名濤先生は亡くなってすでに長い年月が経ちました。彼は言いました。学ぶためと人のため、人のためが学ぶためより重要だと。学ぶためはずっと良いこともある、人のためがうまくゆかなければ人々を脅かす人(害群之馬)でありうると。人のため、これは一人の骨のある中国人にならねばならない(要做一個有骨氣的中國人)ということだ。私は「一人の骨のある中国人にならねばならない」というこの話をいつも思い出します。清華はただ学ぶための場所として記憶(注意)されるだけでなく、清華は実際教育において我々をこのような人としたことで記憶されます。
  私は自身の清華での成長を思い出します。清華は私を教え育てたのはただ学ぶためでなく、わたしはこのような人となる教育したことにあります。清華には大変良い伝統、民主の伝統、科学の伝統、革命の伝統があります。私は湖南から清華に来た時、多くの新しいものに出会いました。当時、私がもっとも崇拝したのは聞一多先生(ウェン・イードー 1899-1946  詩人として知られる。国民党の腐敗を批判し昆明で国民党特務機関により暗殺された。以下生没年などはすべて訳注)、朱自清先生(チュー・ツーチン 1898-1948  文学者として知られる。)です。私が学んだのは電気機械ですが、しかし最も喜んで聞いたのは朱自清先生の講話です。現在私は今でも同じ地方の部隊(在同方部)の集会での講話を生き生きと覚えています。彼は文章を書け、言葉に長けていたわけではないが(不善於言辭)彼の話は誠実懇切(誠懇)であり、人を深く感動させた。私は彼の人となりを尊敬(敬佩)した。私はまた吳晗先生(訳注 ウー・ハン 1909-1969  大変な秀才であり歴史家としてスタート。文化大革命の発端で攻撃を受け、獄中で69年10月11日死亡。ただ歩みを見ると、この死去について、文革の悲劇だけを言うことに躊躇を感じる。吳晗は1949年1月に清華の文学院長、11月には北京市副市長。北京市内の城壁や古建築を破壊する先頭に立ったとされる。また明定陵のかなり乱暴な発掘を主導した一人でもある。1950年代後半の反右派闘争のとき、仲間であった民主同盟の人たちを批判する先頭に立ってもいる。つまり吳晗には矛盾した面があり、その評価はむつかしい。ただ朱鎔基が吳晗の名前を挙げたことは興味深い)と張奚若先生(訳注 チャン・シールオ 1889-1973  コロンビア大学に留学。政治学修士。民主派人士であるが1952-58年に、中央人民政府教育部長、中華人民共和国教育部長を歴任。文化大革命の折、周恩来が保護した人物の一人。)を尊敬している。北京が解放される前、私たちは張奚若先生の家に行くことをこの上ない喜びとした。多くの学生が地面に座って、
p.162   張先生が天下の形勢を闊達に論じ(縱論)、国民党反動派を大声で非難する(大駡)のを聞くのは、痛快この上なかった。当時私は進歩的な学生仲間の影響を受けて学生運動に少し参加しており、少し活動(工作)していました。とくに北京開放以後、私は清華でクラス会主席、学生会主席を務めた。私にとって最も印象的なのは、私のマルクス主義基本知識はあの時期に学んだものです。それゆえ、清華というこの場所は一つの専門を場所というのではなく、同時に皆さんを人とする場所です。
 学ぶためということ、率直に言って、私はとてもよく学んだといえないだけでなく、(これには)当然社会工作が私に一定の影響をあたえており、しかし別の一面では、私の本性は工学が大好きではない。私は英文はまあできる方で、私は外国文学、中国文学が好きで、かつて外文系に変わろうかと思ったこともあるが、(結局)変わらなっかった。当時、わたしはただ文学方面の本を読んだ(净看)。図書館に行くと電機工程の本を読むべきなのだが、しかし私はいつも曹禺(ツアオ・ユウ 1910-1996)の戯曲を読みに行きたいと思うのです。私は清華に来てから彼の戯曲に出会い、ようやく曹禺の本が家宝として世に知られていること、また彼が清華卒業であることを知りました。
 清華は一種の伝統を人に与えています。それは常に向上せねばならないというものです。学習がとてもできる同窓生、私は彼らをとてもうらやましく思いました。ある時、私は春鳳祥同學(彼は後に水利電力部副部長になりました)にいいました。私は小学から中学までずっと(成績は)第一位だった。(それなのに)なんで清華に来てから自分はよく勉強できる学生に比べて困難を感じ始めたのだろうか。彼が返した一言は、現在まで半世紀が経ちましたが、私ははっきりと覚えています。彼は言ったのです。清華に来ている我々の教室の人たちは、中学のときどこであれそこで一番だったんじゃないかと。清華の競争は本当に激烈で、確かに群を抜いた人(出類拔萃的人才)であふれています。我々電機系この一つのクラスから三人の院士が生まれている。私はよく学んだものではありませんが、ブッシュ大統領のあのユーモアにはかないません。小ブッシュはエール大学卒業でしょ。彼はエール大学を訪れて話しをしました。彼は言いました。「よく勉強できる同窓の皆さんに祝福を、しかし勉強できない皆さんも慌てる必要はありません。勉強できなくても大統領はつとまるのです。(ところで)チェイニー副大統領もエール出身ですが、半分勉強しただけですので(チェイニーがエール大学を中退して、ワイオミング大学に編入したことをからかっている。訳注)、彼は副大統領しかできないのです。」私は今日、私もよく勉強したわけではありませんが、そんな私も総理を担当できる、という話に(ここで)急ぐわけではありませんし、わたしにはブッシュのようなユーモアはありません。私が言いたいのはただ、人のためが学ぶためよりもさらに重要だということです。
 皆さんは清華の精神は何か、考えたことがあると思います。たくさんの解釈が可能です。 民主の伝統、
p.163  科学の伝統、デモクラシー、サイエンス、革命の伝統など。どのような解釈も可能ですし、一人ずつ異なる解釈があるでしょう。私の解釈は、それは私の体験ですが、完璧(完美)を追求するということです。清華のこの環境の中で、優れた人が溢れていること(人才濟濟)を感じるでしょう。みんなが歴史的使命である、祖国建設の任務を背負ています。ここで学んで自ら完璧(完美)を追求する(追求完美)、最も良いものをつくろうとすべきです(要做到最好)。
 人を作るなら骨のある中国人をつくること、頂点に立つ中国人をつくること(要做頂天立地的中國人)。研究学問は着実に(扎實)厳密慎重に(嚴謹)不正な名誉を求めず(絕不故名釣譽)他人の成果を剽窃しないことは言うまでもないことです。このような行為は論ずる価値もない。事をなすには着実に真心から人民のために。一人の人は全く欠点なしとは出来ないが、自身は廉潔公正をめざすべきであり、罵られるところに名をのこすべきではありません。
    私は思うのですが、清華のこのような精神が私を鼓舞するのです。私は”右派”とされて
p.164   20年党籍がありませんでした。しかし私は一度も共産主義の信念を失うことなく、自分の仕事や学習で30分休むこともなく、いつも自らに絶えず要求しています、清華大学と党組織の私に対する教育そして清華の老先生に恥ずることがないようにと。いつも(清華に対し 訳者挿入)心に恥じることがないように(無愧於心)する。これが私の最大の願望です。
   私はこの点を使って、私の子供たちに要求をしています。私の娘は1954年生まれです。息子は1958年生まれです。文化大革命の時、彼らはとても大きな圧力を受けました。私自身はこの事情を思うときとても苦しいのです(很難受)が,しかし私は彼らの要求に対しては常にとても厳格でした。私はとてもはっきり覚えていますが、私の息子がまだ十歳に満たないときに、彼は我々のベランダで野菜を植えようとして、ある日、ひとかたまりのぼろぼろのフェルト(油氈)を拾ってきてベランダに広げて、土をまき野菜を植える準備をしました。私はそれを見てすぐに彼に言いました、私たちは貧しいけれど人のものを取ることはできない、と彼を叩いてしまいました。彼は私に言いました、人のものは取っていない、この油氈はごみの山から持ちかえったものだと。当時私は彼を叩いたことをとても後悔しましたが、ただおそらく父親の威厳(父親的架子)のために下出には出れず、私は言いました「それならいい、叩くべきではなかった、しかしこのフェルトは戻すべきだ、ほかの人のものであれ、ゴミの山の中に。」私は彼に付き添って、そのフェルトをゴミの山の上に戻したのです。このことを思い起こすと、心が痛みます。しかし私はとてもうれしかったのです。彼らは清華にきて学ぶことはありませんでしたが、しかし清華の精神は引き継ぎました。私の娘と息子はともに外国で学んでいます。彼らが学んでいた時、私はすでに上海市長、副総理をしていましたが、しかし外国人は誰一人彼らのパパが中国の市長、副総理だと知ることはなかったのです。彼らはともに自身のことは自分でしましたし(靠自己洗盤子)、学校では勤労学生でした(在學校勞動來求學)。現在は二人とも勉強を終えて戻っています。
 私の今日のお話しは少し感じたのですが、体系だってはいません。しかし私が心から皆さんに希望するのは、清華で単に学ぶためではなく、併せて、人を作ることを学び、事をなすことを学び、完全(完美)を追求し、最良(最好)に達することを求めて欲しいということです。皆さんはこの目標を立てる必要がある。我々は第一流の大学を作る必要があります、中国が世界第一流の強国になるために。(それは)根本的には科学と教育に頼ることであり、教育は科学の基礎です。皆さんはこの点に達することができます。(そのために)将来と皆さんとの中間に、どれほどの数の人(院士)が必要かは分からない、皆さんの努力を希望します。
 (以下略)

#朱鎔基 #清華大学 #吳晗 #小ブッシュ  

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