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厲以寧 中国の株式制改革の回顧と展望 2008

 中國股份制改革的回顧與前瞻  原載魏禮群:《改革開放三十年,見證與回顧》中國言實出版社, 2008   厲以寧經濟文選   中國時代經濟出版社 2010 pp.80-93(改革開放後の中国の株式制度発展についての記述であるが、実はここで初めて見る指摘も多い。記述は生き生きしており、厲以寧がこの問題の議論で重要な役割を果たしたことが伺える。この記事は中国の株式制度形成を記録した記事として重要なものの一つだといえる。とくに価格自由化(放開)、請負責任制(承包制)、価格自由化、株式制(股份制)と混乱を繰り返した、1980年代についての記述は示唆に富む。なお国有大型企業の株式制改革について、1997年の十五大報告以降それが進んだことについては、以下にも同様の指摘がある。陳小洪 趙昌文主編:《新時期大型國有企業深化改革研究》中國發展出版社,2014年,pp.164-168)

p.80   一、株式制改革構想(設想)の提起(提出)
 新中国成立前の中国にすでに株式制企業と証券市場が存在していた、しかし新中国成立後、これらはすべて相次いで歴史舞台から退出した。1979年中国の経済体制改革がまさに始まるとき、国内企業の主たるものは国有企業で、それ以外には集団所有制企業であった。国有企業は政府が直接コントロールし、財産権もなお不確定で、政治経済(政企)は未分離、生産と消費はすべて政府が規定、企業は根本的に投資権と自主経営権をもたなかった。簡単に言えば、企業は政府の付属物に過ぎなかった。集団所有制企業に至っては、財産権が不透明不明確なのは同じであった。所有権は誰に帰するのか、だれが投資者(投資人)なのか。集団(集体)概念はずっと曖昧である。これらの企業は実際は政府の統制に服しており、生産と消費は同じように政府の計画にはいっており、企業は自主経営者ではない。これが改革が始まろうとするときの状況だった。
 1978年12月中共一届三中全会が開会後、中国の経済体制改革は始まった。株式制もまた少しずつ進められた。これは農村家庭承包制の試験と推進に関係がある。農村農村家庭承包制は農民の積極性を大きく促し(調動)、農産品の供給が豊富になった。農村の中で多くの余剰労働力が非農業に向けられ、これにより郷鎮企業が起こされた。多くの地方で農民は自発的に株式的方式(集股的方式)を取り、株式制郷鎮企業が組成された。当時流行した句はまさに「労働を伴った資本によって、資本を伴って労働によって」(以資帶勞,以勞帶資)というのである。この種の株式制郷鎮企業は、改革開放以後の中国株式制企業のひな型である。1980年1月、中国人民銀行撫順支店は撫順紅磚厰を代理して280万株の株券を発行し成功した。これは改革解放後、銀行が株券を代理発行した最初の試みだった。
 経済理論界は株式制に関する討論に参加した。私が知る所では、最も早くは1980年4~5月北京において中央書記処研究室と国家労働総局が連合して招集開催した、労働者賃金と労働就業座談会がある。この座談会は一つの明確な目標があった、それは経済学者たちが厳しい情勢にある就業問題のため政策建議を提出しようというものだった。確かに当時の就業圧力はとても大きかった、積年下放した(上山下郷 山に入り農村に行く)青年たちが次々とp.81  都市に戻り、都市に戻った青年は1700万を数え、さらにもはやだれも下放せず、都市にとどまる青年は300万人余り、併せて2000万以上、彼らは「待業青年」と呼ばれた。彼らは仕事を求めていたが、仕事のポストははるかに不足し、それゆえ都市の一部では待業青年が市政府を包囲、請願するなどの事件が生じていた。経済学者たちは会議でそれぞれ自身の意見を表明した。会議で私は提案した、誰もが資金を集められるとしてはどうか、株(股 持ち分)を集める形で新たな企業を組織する、企業は株券(股票)を発行して増資でき規模を拡大できる、このようにして就業問題を解決してはどうか。席上、林子力同志が私に質問した、では中国に株券交易所が登場するのか?と。私は答えた。株式制を実行するなら、株券の流通は当たり前のことだ(正常的)、株券取引所の設立は遅かれ早かれ(実現するだろう)と。
 (それから)3ケ月経って1980年8月、中共中央と国務院は全国労働就業会議を招集開催した。株式制問題は会議において、熱烈に討論された。見るところ都市の就業圧力を緩和することは重要対策の一つだった。この時、株式制に賛成する経済学者はとても多かった。私の知る所では、于光遠,童大林,馮蘭瑞,蔣一葦,董輔礽,王玨,趙履寬,鮑恩榮,胡志仁などの学者はみな株式制の推進に同意し、株式制の実行は良い方法だと述べた。1984年10月、中共中央十二届三中全会が招集開催され、改革の重点は農村から都市に移った。この時から、株式制改革の討論は新たな段階に入った。都市の改革はどこから始めるか?重点はどこか?当時主流の意見は価格の自由化(放開)という考え(思路)だった。人々は常に「ショック療法(休克療法)」について話した。「ショック療法」は1949年の連邦ドイツの経済改革の方法である。知るべきであるのは、第二次大戦後、英米仏三国はドイツ連邦を占領し、ソ連は民主ドイツを占領したことである。連邦ドイツの経済は混乱し、物資は不足し、通貨は膨張、失業は深刻、物価統制をして証票で配給する方法を取らざるをえなかった。1949年から、連邦ドイツは経済改革を進めたが、主要な措置は、価格を自由化し、市場調節に任せたことである。このようにしたので、経済は一度乱れたが、市場メカニズムの作用する条件のもと、経済は次第に安定し、数年後、連邦ドイツの経済は回復(復蘇)繁栄した。この種の方法が「ショック療法」と呼ばれる。そこで一部の経済学者は、連邦ドイツの経済改革で有効だった「ショック療法」を、なぜ中国は実行しないのか?と考えた。価格自由化の考え方は、当時、国務院指導(部)により受け入れられていた。
 1985年、国務院の関係部門は価格自由化(開放)方策(方案)の作成に着手し準備ののち1986年に実施を始めた。これはすぐに二つの種類の改革のいずれが主であるかの争いを引き起こした。二つの改革(一つは価格改革が主であるというもの、もう一つは企業改革が主であるというもの)のいずれが主であるかの争いは1986年に公にされた。
 1986年4月末、私は北京大学事務棟講堂で「改革の基本的考え方(改革的基本思路)」と題した報告を行った。報告の中で指摘したー中国経済改革の失敗は価格改革による失敗の可能性があり、中国経済改革の成功には所有制の取り決め改革の成功、すなわち企業改革の成功が必須である。報告ではさらに指摘した。企業改革の目標モデルはまさに株式制である。ここに至って私は、もはや株式制をただ資本を集め就業を拡大する方式とだけ見てはいなかった。株式制の実行を中国市場化改革の必要
p.82   条件とみて、株式制改革を通じてのみ市場経済のミクロ基礎の構造を刷新できる、市場改革を実現できると考えた。私は価格の改革は必要なものであるが、価格の自由化(開放)は市場化とともに漸次進められるものであり、価格の市場化は全体制改革の最終成果であり、経済体制改革の出発点ではないと考えた。
 私のこの改革の考え方は、当時、中共中央国務院が重視するところとなった。1986年8月、私は北京大学の何人かの若い教師を率いて黒竜江省ハルピンで講義をしていた。或る晩、突然、黒竜江省委員会は私を探しに人を派遣し、北京方面から長距離電話があり、すぐに(連夜)北京に戻り国務院指導(部)(趙紫陽のことだろうか?)に私の改革構想を報告せよ、とのことであった。そこで私たち一行は、命令に従い北京に戻った。国務院指導(部)に報告したとき、私はなぜ価格自由化の実行が適切でないかの理由を提起した。私は、中国と連邦ドイツの情況は全く異なると考えた。連邦ドイツは私有制国家であるので、価格が自由化されると、私営企業は市場状況に応じて自ら調整し、あるものは生き残り、あるものは淘汰され、企業は優勝劣敗の結果として再編され、連邦ドイツ経済は回復に向かう。中国は公有制国家であり、一部の集団所有制企業を除くと、主要(企業)は国有企業であり、独立的商品生産者そして経営者ではない。もしも株式制改革を進めなければ、(国有企業は)市場経済に適応することができない、(そのとき)価格自由化はどのような作用を起こすだろうか?ただ通貨の膨張と経済混乱をもたらすだけで、体制の軌道を転換する作用(体制轉軌的作用)には至らない。私は分析をさらに一歩進めた。もし国有企業体制が改められないなら、たとえ価格が自由化されても、一旦良くない局面が収拾されれば、一夜のうちに統制価格は新しくでき、計画経済の古い道に戻ることもできる。企業の株式制改革は同じである必要はなく、時期を分けて進めてよく、一歩また一歩と不断に改革を進める。あの価格改革のように激烈でなく、このような漸進が妥当である。外見は「漸進」であるが、実際は根本的改革である、それは中国のマクロ経済のミクロ基礎を改変するものだからである。
 出版した『非均衡的経済』の中で私のこの観点は、十分に表現されている。

 二、 株式制改革の曲折(波折)
    価格改革が主か企業改革が主かの争いが続いたが、1984年から1986年の間、株式制改革は一貫して止まることはなかった。1984年10月 上海市政府は「株券発行に関する暫定管理方法」を発布した。同年北京市は天橋百貨公司で株式制(股份制)を試みた。1985年に広州絹麻厰、民興製薬厰、僑光制革厰の3つの国有中小企業で株式制が始められた。1986年12月に国務院は「企業改革を深化し、企業活力を増強することに関する若干の規定」を発布し、各地区の少数の有条件の国有企業に選択させ、株式制を試すことを許した。
 1986年11月私は胡啓立同志とともに四川に実地調査(考察)に行き、四川を株式制改革を試す準備をした。当時重慶市は四川省に属している。私は四川と重慶で二回株式制試行の報告を行った。中共四川省委員会書記の楊汝岱同志は四川を株式制改革の実験場所(試点)とすることを強く支持した。
p.83   なぜ四川を実験場所に選んだのか?一つは四川の国有企業数が多いこと、二つはこれらの国有企業のなかにいくつか重要な大型企業があり、影響力があったからだ。胡耀邦同志は株式制改革を支持し、四川で株式制改革を試すことは彼の支持を得ていた。だが、我々が四川の実地調査から戻ってわずか二ケ月、胡耀邦同志は中共中央書記の職務を辞去し、株式制改革は一部の人々の厳しい批判を受けるに至った。このような情況下、株式制改革は挫折した。1987年5月、企業請負責任制(企業承包制)が正式に実施された。人々は皆、企業責任制は株式制改革の代替案だと議論した。実際のところは、株式制改革と企業請負責任制は同一の次元(同一層次上)の問題ではない。(これは)3つの面から説明できる。
 第一は、株式制改革は国有企業の所有権を明確(清晰)にし投資主体を多元化するものであり、かくして改革後の企業は独立生産者の身分で市場で活躍できる。企業を自主経営し、投資人は利益と損失を自ら受ける(自負盈虧)。このようにして、社会主義のマクロ経済は市場に適合したミクロ経済の基礎をもつことになる。企業責任制は所有権の確定と明晰化というこの肝心な問題を完全に回避している。
 第二は株式制改革により企業は再び政府の付属物ではなくなり、政府はただ法律法規によって企業の行動を規範できるだけになり、計画経済体制の下のように企業を直接操縦したり、企業の関与できなくなる。このようであって、市場経済のルールが作用を始めるのである。請負責任制はそうではない。企業請負責任制の下では、企業は依然政府の付属物の地位を脱することができず、市場経済体制は確立しようがない。
 第三は株式制改革を通じて、企業は投資人の利益に関心をもつ、投資人の短期利益だけでなく長期利益も含めて。(これにより)企業の発展はメカニズム上保証される。請負責任制のもとでは、ただ短期利益だけが考慮できるだけである。それゆえ請負責任制が期限がきた後の状況は知りようがない(不可知的)。それゆえ責任(制)以後企業には短期行為が出現し、設備にかまわず資源消耗にかまわず(となる)。これは企業自身の発展にとり不利であるだけでなく、国民経済にとり不利である。
  これらはいずれも私が当時企業請負責任制を批判した意見である。当時経済学界は請負責任制の楊培新同志を固く支持した。(楊と)私は個人的には仲がよく、交流も多い。しかし株式制と請負責任制の議論においては、私の観点は十分はっきりとしており、少しも譲ることはなかった。
 企業請負責任制は胡耀邦同志辞職後ついに全面的に始められたが、効果はよくなかった。これは予測されたことである。1987年10月、李鉄映同志が国家体制改革委員会主任になり、各種の異なる観点の経済学者が率いる課題組を作り、方策を提出させることを提起した。私は北京大学課題組の組長であり、若い教師と学生の一群を率いて、調査、研究、分析、討論を進め最終的に3年、五年、八年の改革方案を決定(擬定的)して、国務院に送った。この方案のなかで、我々は提起した、企業請負責任制が既に進められているが、しかしこれは決して長く続く政策ではない、できるだけ早く株式制に移るべきで、そうすることで財産権を明確に大事(首位)にするべきである。株式制を企業改革の目標モデルとすることが我々の方案の核心である。
 まさに企業請負責任制がいかなる効果も生み出さなかったとき、すなわち1988年夏、国務院は再び
p.83   価格改革を主とするやり方に戻った。「価格一斉自由化(闖關)」を順調に進めるために、通貨膨張の出現を防止するため、「貨幣を抑制、物価は自由化(放開)」措置が取られた。しかし一度情報が伝わると、全国範囲で預金を引き出し(擠提),商品を奪うように買う(搶購)風潮が発生した。また「貨幣抑制」は実際はできなかった。というのは貨幣抑制は投資抑制を実現できただけで、人々が手元現金や貯めた預金を引き出して商品を購入することを妨げることはできなかった。どうしようもなくなり(不得已),政府は物価自由化の暫時停止を宣言し、元の計画をやめて「混乱を正した(治理整頓)」。この最初の「価格一斉自由化(闖關)」の失敗は、市場において、自ら利益損失を引き受け、自主経営をする市場主体が少ない条件のもとで、価格改革を主とする改革の思考はうまくゆかないことを証明した。
  企業責任制が成功せず、「価格一斉自由化(闖關)」もうまくゆかず、国務院は再び株式制改革の道に戻った。1989年3月末、北京において若干の経済学者たちが国務院関係部門の召請に接した。真剣な準備が求められ、4月27日に中南海で株式制改革座談会が開かれた。しかし誰もが予想しなかったことだが、胡耀邦同志が4月15日に急逝し形成は急変し、4月27日に開会された座談会の参加者はほとんどおらず(寥寥無幾)いかなる問題も解決できなかった。続けて「六四」の風波のあと、株式制は再び批判と質疑にあった。この時から、株式制に対する否定と質疑は、実際上は二つ層が重なった問題であった。
 株式制に否定態度の人は、株式制の実行は私有化の実行だと考えた。彼らはもし中国が国有企業の株式制を実行することは、中国を資本主義の道に引き入れるものだといった。
 株式制に疑問がある人は、株式制が中国に適合しているか否かを論ずるようになった。彼らは考えた。
 第一。中国経済は複雑で、株式制の採用は適切でない。株式制は問題を解決せず、国有資産を侵したり、流出させるといった弊害をうみだす。
 第二。たとえある種の株式制を一種の形式として採用できても、それは集団所有制企業や一部の中小型国有企業にとどまり、大型国有企業は株式制を採用できない。
 第三。たとえある種の株式制を一種の形式として採用できても、それは新たに作られる企業や一部の国民計画や民生と無関係の新企業に適合するだけで、もともとある国有企業は株式制採用に適さない。
 この時間のなかで、私は、市場経済体制を始めるべきであり、そのためにはミクロ経済の基礎を改めるべきで、株式制改革は必ず通るべき路であるとの自身の観点を堅持した。幸いにも、この時間の中でも、株式制改革は実践において依然推進されていた。1990年3月に国家は上海と深圳の二か所で株券の公開発行を許可した。1990年11月、上海市政府は上海市証券交易管理方法(辦法)を公布した。1990年12月、上海市証券交易所と深圳証券交易所が前後して営業を開始した。1991年5月 深圳市は政府は「深圳市株券発行と交易管理暫定方法」を公布した。1991年8月、中国証券業の自律組織中国証券業協会が北京に成立した。1991年末までに上海証券交易所には8個の株券が上場し、深圳証券交易所には6つが上場した。
 中国の株式制改革は困難な中でも前進を続けていた、これは株式制が時代の潮流に適応していることを反映していた。この
p.85  正に肝心な時に胡耀邦同志の南方談話は歓迎すべきことだった。鄧小平同志は深圳視察時に指摘した。「証券、株式市場、これらのものが究極良いものか悪いものか、資本主義だけのものか、社会主義が用いれないものか、見てみようではないか。しっかり試す必要がある。見て良ければ、一両年よければ自由化しよう。間違っていれば改め、辞めればよいことだ。辞めるのは、早く辞めてもいいし、遅く辞めてもいい。少し残すのもいい。何を恐れるのだ。この態度を堅持し、焦ることが無ければ、大きな誤りは犯さないものだ。」(原注 鄧小平文選第三巻 人民出版社1993年 p.373)。鄧小平同志の南方談話は、全国人民が社会主義市場経済体制を建設する熱情を多いに励ました。株式制改革は幾度の曲折を経て、ついに加速前進するようになった。
 
   三、 証券法の起草、討論と可決(通過)
(ここで厲以寧は1992年人大委員長の万里の建議で、証券法起草小組組長に任命されたとしている。確かにこれは特筆に値することだろう)
 1992年、鄧小平同志の南方談話のあと、全国人大常任委員会は万里委員長の建議により、私を証券法起草小組の組長に任命し、証券法起草の責任を負わせた。これは専門家が法律起草の組長となる初めてのことであった。
 (中略)
p.86 株式制の試行場所範囲の拡大、国有大型企業をいかに株式制改革の流れに入れるかは、1997年に招集された中共十五大報告の中で明確に規定されている。報告は提起している。「株式制は現代企業の一種の資本組織形式であり、所有権と経営権の分離に有利であり、企業と資本の動作効率を引き上げるのに有利であり、資本主義で用いることができ、社会主義でもまた用いることができる。株式制が公有か私有かをぼんやりと(籠統地)言うことはできない、肝心なのは支配的株券(控股權)が誰の手中にあるかを見ることである。」これは初めての思想解放である。それゆえ理論上の突破であり。計画経済のとき人々を牢固として支配していた伝統的公有制概念の重大な修正である。1980年から数えて1997年は18年経っている。国有大型企業の株式制改革は新たな段階に浮上し、人々はもはや株式制企業の姓が「社」であるか「資」であるかの論争に手足を縛られることはない。
 このあと証券法草案は多くの審議を経て、1998年12月全国人大常任委員会を通過、1999年7月1日施行された。正式表決の数日前に、李鵬委員長が私を訪ねて質問した。証券法のなおどこに完全にするべき問題があるのかと。私は言った、いかなる法律もすべてを尽くすことは不可能です、以後修正はあるでしょう、しかし全国人大常任委員会審議通過を提案できたこと、すでにこれは一大成果ですと。証券法が高い賛成票で可決されたことで、私はとても慰められた。
  1999年から国有大企業の株式制改革工作は大いに加速し、上場企業数は日増しに増加している。中国の株式制改革は全面舗装された加速道(快車道)に突入した。

 四、双軌制から単軌制へ:株権分置改革
 証券法実施以後、中国株式制改革と資本市場発展が直面した重要問題はいかに双軌制から単軌制へ向かうかであった。これは必ず適切な時に解決する問題であるが、それはまたかなりむつかしいこと(棘手)であった。
 双軌制は株式が二種類あることを指している。流通株と非流通株である。双軌制の形成は歴史に原因があった。前に述べたように、中国企業の株式制改革は計画経済体制を緩和するところから始めたが、経済の中で主導地位を占める情況下で始められた。当時、唯一政府部門が受け入れられた案は、「まず増やすものを株式化し、のちに既存のものを株式化する」であった。具体的に言うと、国有企業を株式制企業に改変して上場した後、増発する株式は流通株で、株式市場で取引可能。元の資産は株式化されているが、上場されず流通しない。流通株と非流通株の併存、これが株式制度における双軌制である。(以下略)

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